いくじなしの私とかっこつけの彼
大学1年、かつて恋が実った日。
『おめー今日何時あがり?』
バイトの休憩中にスマホを開いたら、メッセージアプリに赤いバッジが付いていて、一番上に現れたテキストに気づいた瞬間狼狽えてしまった。
時間……4時間前。しまったなあ。今日はちょっと家を出るのが遅くなって、慌ててたから、バイト始まる前にスマホを見ていなかった。見てたら、絶対すぐ返したのに。もしかしたら、諏訪からなんらかのお誘いがあったかもしれないのに。今から返信して間に合うかな。
私は一縷の望みをかけて『21時だよ。何かあるの?』と送った。休憩中に返信が来ますようにと願ったけれど、残念ながら通知は届かなかった。
結局、諏訪からのメッセージはそれきりだった。シフト終わり、真っ先にアプリを開いたけれど、既読がついただけで返信なし。なんだったんだろう。共通の友だちとのご飯にでも誘ってくれようとしたのかな。だとしたら今頃はお楽しみ中かな。
諏訪と会って話せたかもしれないチャンスを逃したことに消沈する。毎日教室で顔合わせてた去年までと違い、大学進学してから会えるタイミングなんて全然ない。毎回、どうにか理由を作って会いに行かなきゃいけないのに。
会いたいなあ。
バイト先を出て、自宅へと続く夜道。まだ本格的な寒さではないものの、日に日に下がっていく気温に、今年も終わりが近づきつつあることを実感する。
あーあ、駅が遠ざかってく。明るい大通りを背後にため息をひとつ。諦めきれない私は、未だスマホの画面から目を離せないでいた。『今から来ねえ?』なんて通知が飛んでこないものかと期待して。
ふと、進路方向にいる1人の人影が気になった。人通り少なめの夜道で、その人は街灯に背を向けて、肌寒さに耐えるようにポケットに手を突っ込んで立っていた。
その姿勢が、今まさに脳内を占めている人物にそっくりだったから、無意識に目を惹かれる。……うん? よく見たら、背格好も髪型も……。
「……諏訪?」
「おう」
幻覚かと思ったけれど、彼は私の声にしっかり反応して目の前に歩み寄って来た。
本当に諏訪だ。会えて嬉しいなんて感情より、困惑の方が先にやってくる。なんでここに。
「悪い、いきなり。今ちょっとだけ話せねえか。おめーを家に送るついででいい」
「や、全然いいけど。話ならちゃんと聞くよ? 駅前のカフェ、10時までやってたと思う」
気温に対して微妙に服装をミスってそうな諏訪がかわいそうで、そう提案してみたけれど、諏訪は少し考えてから首を振った。
「いや、いい。送らして」
「…………?」
私の隣を諏訪が歩いている。ちょっとずつ状況を理解してきた脳内が勝手に盛り上がり始める。……いやいや! 落ち着いて。諏訪とは3年以上も友人同士なのだ。そりゃあ、異性の中では1番、アドバンテージあるかもくらいは思わなくもないけれど。こんな何でもない日に、脈絡なく関係が進展するなんて、そんな期待は都合良すぎるでしょ、私。
話の切り出し方を迷ってるのか、所在なさそうに視線を彷徨わせていた諏訪が、私の足もとに目を止めた。
「おめー、やっぱりまだヒール履けねえの?」
「え? ああ」
若干くたびれたスニーカーに注目されていると気づき、なんだか気まずい。今日はバイトに行くだけだからと油断していた。と言っても、我が家の靴箱の中身はもともとバリエーションがない。たとえ諏訪とのお出かけだったとしても、選ばれるのは結局これか、多少はおしゃれ要素のあるフラットソールのブーツか。
近界民から逃げ回ったあの侵攻以来、私は軽いトラウマのようなものを引きずっていた。ボーダーが警戒区域を完全に隔離した今でも、突然どこからか現れるかもしれない怪物を恐れている。いざという時に走れないのが怖くて、少しでも不安定な靴を履くと脚が震えてしまうのだ。そんな話したの、結構前だったと思うけど、諏訪は覚えていたらしい。
「まあ、うん。でも大丈夫だよ。次襲われても、諏訪が助けてくれるんでしょ? ね、ボーダー隊員さん」
諏訪も2年前の侵攻の被災者だ。けれどただ怯えてしまった私と違って、諏訪は対抗する方を選んだ。高3になってすぐ、彼はボーダーに入隊した。
訓練生として、諏訪が毎日のように頑張っているのを知ってる。正確には、何を頑張っているのか、一般人の私は知らないのだけれど。諏訪はこう見えて真面目なやつなのだ。見ていなくても、頑張っている姿が想像できる。最近なんだか楽しそうだし。
ちょっと冷やかすようにして見上げたら、諏訪は照れると思ったのに。視線を逸らさずフッと急に力が抜けたように笑うから、私の方がドキンとしてしまった。
「正隊員になった。今日」
「……え!」
「同期ん中では出遅れちまったけどな。ようやく俺も、晴れてボーダー隊員サマなんだわ」
突然の報告。なんでも無さそうな言い方をして、少し感傷に浸るような諏訪の表情に、私の心もじわじわと浮き立つ。
正隊員になるには、訓練をたくさんして、一定の強さの基準みたいなものを満たさなきゃいけないらしい。諏訪は実力が認められたってことだ。
「うわあ、おめでとう! 頑張ったね、諏訪!」
「おー」
手離しで喜びを示せば、諏訪も満更でない様子で笑顔を見せた。
本当に、自分のことのように嬉しかった。私は諏訪が凄いやつだって知っているけれど、C級という肩書きでは活躍の機会も限られてしまう。諏訪はこれで、きっと何かやりたいことに近づけたんだろう。
「お祝い……もう、知ってたら何か用意したのに」
「何、何かしてくれんの」
「そりゃあね。ていうか諏訪、嬉しかったのは分かるけど、こんな時間じゃせっかく来てくれても何もしてあげらんないよ。別の日に誘ってくれても良かったのに」
諏訪がわざわざ報告しに来てくれて嬉しかったのと同じくらい、こちらもちゃんと準備してお祝いしたかったのに、という不満が漏れる。複雑な気持ち。自分のことながら、恋する女はめんどくさい。
「いんだよ。こっちの話は、ついでだから」
もだもだ考えていたら、諏訪の呟きを聞き漏らすところだった。
ワンテンポ遅れてはたと気づく。……ついで? どういう意味か聞き返す前に、名前を呼ばれた。
立ち止まった諏訪が、真剣な顔をしてこちらを見ている。
「待たせて、悪かった」
(あ……)
唐突に、これから何を言われるのか分かってしまった。
さっきまでのはちょっとした期待。けどこれは、確信だ。
時間の流れが変わった気がした。諏訪に抱いている感情が折り重なるように胸を締め付けて、ほかに何も考えられなかった。
恋が実る瞬間に、心の準備なんてさせてもらえないのだと知った。
「好きだ」
諏訪のその言葉は、私の気持ちを取り出して重ねればピタリと隙間がなくなるほど、そっくり同じ形だった。
あまりにそのまま過ぎて、ちょっと不自然だと思ったくらいだ。だって、こんな真っ直ぐな言葉で伝えられるなんて思ってなかった。普段、照れ臭いようなことは無駄に言い訳を添えるか、遠回しな言葉ではぐらかしちゃうのに。
暗がりで見えづらいけれど、私を見つめる諏訪の瞳がわずかに揺れている。それに気づいて、固まってしまった私の思考はようやく溶け始める。
(なんだ、やっぱりちょっと、無理してる)
目の前の彼は今、頑張っていい雰囲気を作ろうとしてくれているのに、なんだかそれがたまらなくおかしかった。
唇が緩む。ほかに考えるべきことがあるはずなのに、私の方こそ、緊張が限界突破して開き直ってしまったのかもしれない。
「諏訪、顔真っ赤」
「!」
指摘した途端、真面目ぶった諏訪の顔からみるみる虚勢が失われ、気恥ずかしさが滲み出た。反応を見て私が楽しんでいることがバレたのだろう、恨みがましそうに歪む表情。
「……っ、るせー……返事は」
とうとう顔を背けられてしまった。
その仕草に、ああ、諏訪だなあ、と妙な安心感が生まれる。曖昧な場所で立ち往生する私に、進む勇気を示してくれるのはいつも諏訪なのだ。今日もまた、恥ずかしいのを堪えて踏み込んで来てくれた。
その気持ちに、私だって答えたい。
勢いよく諏訪の胸に飛び込んだ。
こんなに後先を考えず、衝動に身を任せたのは初めての体験だった。
しがみついた腕の中で、諏訪の身体が強ばっている。恥ずかしくって顔なんか上げられないから、諏訪がどんな風に私を見ているかは分からない。ごまかしの効かない距離で、怖いくらい鼓動が速まって……いいや、もう。この恥ずかしさごと、諏訪に私の気持ちが伝わればいい。
「諏訪にこういうこと、してみたかった。もう我慢しなくてもいいよね?」
確かめるように力を込めたら、温もりが背中に回ってきて、また心臓が跳ねた。
ぎこちない触れ合い。けれどこの温もりを感じる幸せは、友人から昇格した新たな関係の特権だ。
「私も、……好き」
明日からは、理由を見つけなくても会いに行ける。