合鍵①
⚠︎マイナス要素 ⋮ 19歳、別れた直後の諏訪の独白。
付き合ってまだ1ヶ月も経たねえ頃、あいつに合鍵を渡した。
大学の授業に加え、バイトだ防衛任務だと、互いに多忙な生活の中で、少しでも会える時間を増やそうと思えば自然な選択だった。家賃と立地重視で選んだ、年期の入った1Kでも、貧乏学生の俺らが寄り添ってちょっとした幸せを感じるには充分だった。
「まーだニヤついてんのかよ」
「いいでしょ、嬉しいものは、嬉しいの。しばらく浸りたいから放っておいて」
「合鍵くれえで大げさな……」
「もう。諏訪に私の乙女心を分かってもらおうだなんて思ってませんー」
手渡した瞬間、ぱあっと嬉しさを綻ばせながら高揚したそいつの顔は、とっくの昔に降伏済の俺の気持ちに追い討ちをかけて、致命傷を喰らわせた。こんなことでアホみたいに喜ぶ恋人の一挙一動に、俺は何度照れくささを取り繕う羽目になったか分かんねえ。それでも、そいつがいつも惜しげもなく俺に与える愛情を、少しでも多く返してやりてえと、その時はそう思っていた。
やったはずの合鍵が、今は俺の手にある。
帰宅後、郵便受けを開けたら、チラシに紛れるようにしてそれは置かれていた。別れを告げたとき、そんなことにまで気が回らなくて、受け取りそこねていたもんだ。毎日昼過ぎにポスティングされるチラシより下にあったということは、俺が防衛任務に出ている時間を見計らって来たのだろう、と意味のねえ推察をする。
『ごめんね。勝手に私物片付けさせてもらった。今までありがとう』
律儀にそう添えられていた。メッセージアプリのテキストでない、あいつの手書きの文字を見るのは久しぶりだ。俺の部屋からは、あいつの痕跡が丸ごと取り払われていた。
(“ありがとう”、どんな気持ちで書いたんだろうな)
あいつからすれば、俺は紛れもなく最低最悪クソ野郎だ。何年も気持ちを弄んでおいて、気まぐれに手を出しておいて、最後は一方的に振り払った。そう思われるように振る舞ったのだから、そう思ってもらわなきゃ困る。引っ叩かれでもすりゃ上々だったんだが、あいつは、そんなことができるタマじゃねえわな。
俺だけが知る事実――あいつの強すぎるサイドエフェクトは、少なくとも、あいつを幸せにするためには働かない。そう結論付けたとき、俺の選択は自動的に決まったようなもんだった。
誰にもバレねえうちにボーダーから……俺から遠ざける。もっと早くにそう出来たはずなのに、ずるずると長引かせたのは俺の気が弱えせいだ。
あいつを裏切る覚悟をするのに、数週間はかかっちまった。俺への未練なんざ一切残さねえよう上手くやる必要があるのに、できるだけ傷つけたくねえ気持ちと、あいつの泣き顔を見る恐怖で、言い出せなかった。
やっとの思いで別れ話に持ち込めば、少し前から変わっちまった俺の態度に予感していたのだろう、あいつは最初、ただ黙って、声を上げずに泣いた。俺は自分の表情を変えねえことに必死だった。俺がガラでもねえ涙なんか見せちまったら、こいつに俺自身の未練がバレちまう。
「……いや……」
「え」
「諏訪と離れるの、無理だよ……だって、こんな……私、戻れるわけない……嫌だ、諏訪、諏訪ぁ……!」
追い縋られるのははっきり言って予想外だった。
あいつは常に、自分よりも相手を優先しちまう性格だ。家族のために、ダチのために、俺のために。そういう思考回路だから、ろくにワガママなんざ言われたことなかったのに、よりによって今それを言うのかよ……!
最後の最後に欲が出る。こいつを手放さなくて済む方法。俺がボーダーを辞めれば、これからも一緒にいられるんじゃねえか……?
(出来るはずねえ)
すでに何度も導き出されていた答えは、やはり覆ることはない。
俺はすでに知っちまっている。ボーダーに身を置く仲間一人一人の顔。同世代ですでに多くの責任を負っているやつらの努力と研鑽。そいつらの尽力無くして、この世界の日常はもはや成り立ち得ないのだということを。
この三門で、あいつらに守ってもらうことが当たり前の立場に戻って、てめえは、惚れた女が再び危険に晒されたとしても、ただ他人に助けられるのを待つってのか? 危険に投じる覚悟を仲間に担わせて、てめえの平穏だけ享受して、それでどんな顔してこいつの隣に立っていられんだ。
「わりい……」
知恵も力もない俺には、誰にも割りを食わせねえやり方が思いつかなかった。
大丈夫だ。お前の世界にいるのは俺1人じゃねえ。寂しいと思う気持ちなんざ長続きしねえくらい、お前の周りはいいやつだらけだ。俺から離れて広がった世界で、新しく出会った中に、お前が特別と思えるやつも絶対いる。だから、今だけだ。
俺は心の声で、あいつに語りかけるフリをして、罪悪感に折れちまいそうな自分自身に言い聞かせていた。
(最後にかける言葉、考えるだけ無駄だったな)
顔を合わせることなく戻ってきた合鍵を眺める。あいつとの繋がりが微妙に残っていた状況は、俺にとっても気まずくてどう整理すべきか悩みのタネだったはずなのに、いざそれらが消えて無くなった途端、別の苦しみが襲ってきた。
あいつを傷付ける覚悟はしていた。泣かれることを何度も頭の中で想像して、あいつに押し付けちまう理不尽さを詫びて、それでも譲れねえと選んだことだ。けれどこの選択の先の結果がどういうものか、本当は全然分かっちゃいなかった。
俺は、俺自身があいつのいねえ寂しさをどう埋めて生きていく気なのか、まるで考えられていなかったのだ。
「……会いてえな、クソ……」
時が経てば傷は癒える。
そんな言葉は、なんの慰めにもなりゃしなかった。