SEを自覚せずに生きている夢主と同級生すわ

合鍵②

本編アフターストーリー

 諏訪が暮らすアパートは、大学の最寄駅から徒歩圏内の、結構便利なところにある。
 大通りに出るまでの夜道が暗いことと、築年数がそれなりに経っていることに目を瞑れば、間取りも良いしバストイレも別。学生にとってはかなりの優良物件だと思う。
 普通なら入居希望が殺到するはずの立地条件だけれど、ここ三門市においてはその限りじゃない。やっぱり、多少移動に時間がかかっても、住居は警戒区域から離れた場所が望まれるのだ。家賃を仕送りする親の立場からすれば尚更。
 おかげでこの辺りの家賃相場は、他県の大学最寄りと比べて遥かにお手頃なのだという。 

 そんな話を当の家主から聞いたのは、最初にお泊まりした日だったっけ。
 それまでも友人と冷やかしに遊びに行ったことはあったけれど、付き合って、恋人として、ふたりきりで……というシチュエーションにドギマギしすぎて、なんだかずっとどうでもいい話で気を紛らわせていた気がする。

 あの時はそうやって緊張を乗り越えたんだな、と懐かしい記憶を振り返る。――正確に言えば、懐かしむふりをして、今感じている緊張から目を逸らしている。
 初々しい当時とはまた違った感覚に苛まれながら、私は今、諏訪の部屋で、落ち着かない気持ちと戦っている。
 
 今夜、私は諏訪と2年ぶりの夜を共にする。
 
 想いが通じ合ってから数日。例の特殊体質による弊害を、いくつかの制約をもって対処することを条件に、私たちは再び恋人という関係を築き直した。
 私のSEは、干渉する人体にどんな影響があるのかまだ分かっていないし、下手にトリオン量を操作してしまうと、諏訪の任務遂行やランク戦の公平性にも支障をきたす。
 上層部と協議の末、私たちに許されたのは週に一度の決まった時間。土曜日のランク戦終了から月曜の午前中までが、恋人として一緒に過ごせる唯一の機会になった。
 今日は、そうして過ごす最初の土曜日だ。
 
 自分のものとは違う、骨ばった指が顔に触れる。その指が髪を梳いて、肌をくすぐるたび、ゾクゾクとした痺れに身をよじった。
 ぐっと体重をかけられ、思わず全身を強張らせる。すぐ間近に迫る吐息。

「……おい」

 降りてきた唇を避けてしまったのが決定打になって、諏訪は、とうとう不機嫌そうに苦言を漏らした。

「てめー、この期に及んで逃げようとしてんじゃねーだろうな」
「そんなつもりは」

 ない、と言い切るには矛盾した自分の行動。
 ベッドの上、覆い被さってきた諏訪との密着を拒むように、両腕を突っ張らせて厚い胸板を押し返している。
 こちらを見下ろす目と目の間に、みるみる深い溝が刻まれる。

「俺が今日までどんだけ堪えたと思ってんだ」

 怖い顔で睨まれて、居た堪れなくなった。
 あの日から、待ちわびたはずの諏訪との触れ合い。こんな風に求められるのは嬉しくて、私も応えたい。それは間違いないのに。

 言い訳を探してしばらく黙り込んでいると、呆れたような、諦めたようなため息が落とされた。

「何考えてんのか、言え。全部」

 一度身体を起こし、私と距離を少し空けた諏訪は、あぐらをかいて頭を掻きむしった。
 むすっと口を結んだ仏頂面で、不本意なのがあからさまだけれど、それでも私のペースで話し始めるのを待っていてくれている。不器用で、優しい男。

「諏訪は、私に触れるの、本当に怖くないの」

 おずおずと口に出せば、なるべく考えないようにしていた事実がトゲのように刺さった。

「こんな得体の知れない体質で……」

 医療チームの協力で、定期的に検診はしてもらっているし、任務で私の干渉を受けた中にも、今のところ体調に異変が現れた人はいない。
 けれど、今からしようとしている行為は、他の人とは干渉度が段違いなわけで。
 何が起こるかわからない――そんな不確かなリスクを、私は諏訪に負わせることになる。

「やべーことになんねえようにふたりで検診行くんだろ。それくらい覚悟の上だって、俺言わなかったか」
「そうだけど」
「おめーも、納得してここに来たんじゃねえの」
「そうだけど……!」

 心なしか、冷めてしまったような口調に鳩尾を掴まれる。無粋なことを言っているのは自分だけれど、逃げたいなんて思ってるわけじゃない。
 むしろその逆で、次に諏訪に避けられるようなことがあれば、今度こそもう生きていけないかも、そんな強迫観念にすらかられている。
 やだ、誤解されたくない。それなのに上手く言葉が出てこない。
 切羽詰まった頭の中は軽くパニック状態だ。

「だって、こ、こんなに……ドキドキするなんて思わなかった、から……!」

 焦って口をついた台詞を顧みて、今度はあまりの恥ずかしさに消えたくなった。
 できれば、もう少し包み隠して伝えたかった。 

 こういう行為に慣れている、とまでは言えないけれど、まったくの初心というわけでもない。これまで何人かの男の人と付き合ってきて、その内の何人かとは、やっぱりそういうことも経験済みで。
 というか、そもそも諏訪とするのだって初めてじゃないし。
 指の形、唇の形、この男のことで私が知らないことなんて、何も無いはずなのに。

 いざ、ってなった瞬間、コントロールできない感情の高まりに戸惑っている。初めて抱かれた時だってこんなじゃなかった。
 いつも左手に付けている心拍計測器、今は外しているけれど、付いていたら確実に警告が出てる数値だろう。

 だから、危ないから、せめて少し落ち着くまで待って。
 そう言いたかったのだけれど。

「ほーん」

 顔を合わせられずにかざしていた手を掴まれ、無理矢理覗き込まれてしまった。
 再び至近距離で交わされる視線に、思い切り動揺する。

「ちょっ、だめ、見ないでって」
「は? 見んだろ。んなこと言われたら」
「ばか、すわ」
「おー、珍しい顔」

 人が真剣に気遣っているというのに、何故だか急に気を良くしたらしい諏訪が、赤くのぼせ上がっているだろう私の顔を見て意地悪く笑った。
 調子に乗って……! 憤慨して抵抗を試みるも、掴まれた手は振り解けない。
 そのまま軽く引き寄せられただけで、私の身体は呆気なく捕まって、拒む暇もなく唇同士をくっつけられた。
 強引なわりに、包み込むように優しいキス。

「俺はよ」

 10秒に満たないくらいの触れ合いの後、ゆっくりと離れた唇が、まだ息のかかる距離で言い継いだ。

「おめーの能力の発動条件聞いて、実はちょっと嬉しかったんだよな」
「嬉しい?」

 余裕のない私を嘲って、ニヤリと上がる口角。

「こいつ、俺と付き合ってた時、会うたびそんな興奮してやがったのかーって」
「〰〰〰〰ッ!」

 とんでもなく恥ずかしい指摘をされて、自分でも感じるほど顔が熱くなった。
 それは……間違ってないけれど、でも、わざわざ言うことじゃないじゃない。

 私の反応がよほどお気に召したのか、諏訪はケラケラと笑って、抱き寄せる腕に力を込めた。

「彼女にそんな風に思われて、テンション上がらねえ男がいるわけねえだろ、ばーか。好きなだけドキドキしてろ」

 そう言われてしまえば、もう要求を拒むそれらしい理由が思い付かない。
 身体を再びマットレスに沈められ、逃げ場を閉ざすように迫ってくる熱を、私は今度こそ全身で受け止める覚悟をした。 

 
***

 
 諏訪が好き。
 もう今さら隠せもしないこの感情を、実は未だ本人に言えないでいる。

 口にして、今よりもはっきりと気持ちを共有すれば、諏訪もそれに応えようとするのだろう。
 同調していく気持ち。
 それは本当に、あいつにとって本望なのだろうか。

 恋人になれたことは本当に嬉しい。けれど迷いが完全に消えたわけじゃない。私を巻き込んだなんて諏訪は言うけれど、あいつの方こそ巻き込まれたって言うべきなのだ。
 普通に触れ合うこともできない恋人と、秘密に縛られて、あまつさえ敵に狙われる心配までしなきゃいけない。そんな不自由を、本来は私にのし掛かる負担の大部分を、今は諏訪が自ら抱え込んでいる。
 恋人という存在が与えるはずの安心や癒しは、私が受け取るばっかりだ。

 この歪な関係に複雑な想いを抱きながら、それでも、差し出された手を私から振り解くことはできない。
 あいつが求めてくれる限り、いつまでだって隣にいたい。……そういう身勝手さに自覚があるから、私から諏訪を求める言葉には後ろめたさがついて回る。
 ううん、こんな言い訳すら欺瞞ぎまんなのかも。結局は、自分に都合の良い今の関係を、諏訪が望んだのだという大義名分で、不自由を強いている罪悪感から逃げたいだけなのかもしれない。
 そうやって自分の卑怯さに向き合うたび、どうしようもなく怯えてしまうのだ。

 私たちがふたりでいる未来は、ちゃんと諏訪の幸せに繋がっているのかな。
 私の想いは、やっぱり、いつか諏訪の重荷になってしまわないのかな……。 

 
***

 
 朝の温度に、くぐもった何かが薄く溶け込んだような、不思議な空気で目が覚めた。
 頬を撫でる冷たさ。部屋の中は薄暗いけれど、少しだけ開いたカーテンの奥から、光の筋と外気が入り込んでいる。
 昨夜、私を閉じ込めたまま眠りについた温もりは消えていて、隣には人ひとり分のスペースがぽっかり空いている。 

(タバコの、匂い……)

 微かに鼻を刺激するものの正体に気付いたことで、探し人の居場所にも見当が付いた。

 今までまわりに喫煙者がいなかったから、嗅ぎ慣れていないのだけれど。諏訪の近くで時折感じるこの香りが、私は嫌いじゃない。
 苦くて、少しだけ甘い、安心する諏訪の匂い。同い年なのに妙に大人じみて見える仕草も、癪だけれど似合っていると思う。
 そういえば昨夜は諏訪がタバコを吸っているところを見ていないな。もしかして気を使ったのだろうか。

 起き上がろうとしてベッドから足を下ろしたら、下からそわりと冷気が這い上がってきて、身が縮こまった。
 あ……そうか、私いま、下着にパーカー被っただけだ。諏訪に借りたこの服はぶかぶかで、股下まで隠れるけれど、暖房の付いていない部屋を彷徨く格好としては無防備すぎる。慌てて布団の中に舞い戻る。
 そうこうしているうちに、立て付けの悪い引き戸がカラカラと音を立てた。

「お。起きたか、いや起こしちまったか?」

 ベランダへと続く窓から、カーテンを押しのけて諏訪が戻ってきた。
 白い光が瞬く間に部屋中に広がっていく。外は思っていたよりずっと日が高いみたいだった。
 羽織っていたジャケットが雑に放られる。空気が舞い上がると同時に、そいつの纏っている煙の残り香が強く感じられて、クラクラした。

「まだ9時前だし、寝てていーぜ」
「んーん、起きる」

 そう答えたものの、何も履いていない生脚を人前で堂々と晒すのは少々気恥ずかしい。
 ひざを折り曲げてパーカーの中にずぼっと包まったら、「寒ぃか?」と余計な気を使わせてしまった。

「ちょっと待ってろ」

 諏訪はエアコンの電源を入れると、そのまま玄関前のキッチンへと向かった。シンク上の戸棚を開けて、何やら中身をゴソゴソしている。
 あいつの視界が扉で遮断されている隙に、ベッドの下で丸まっているジャージのハーフパンツを手繰り寄せる。

 しばらくして戻ってきた彼の手には、大きめのマグカップが握られていた。

「ん」
「あ、ありがとう……」

 手渡されたカップから漂う、甘く香ばしい香り。湯気を立てるコーンスープが、両手をじんわりと温める。

 ……コーンスープ? 諏訪の家に?

 優しさをありがたく受け取りながら、降って湧いた邪推がどうしても頭から離れない。
 この男が好んでこれを常備しているイメージが湧かない。どちらかというと、もったりした甘さは苦手なはずで……現に今、本人が飲んでいるのはインスタントコーヒーだし。

 こういう小さな違和感は、実は昨日からちょくちょく感じるところがあった。

 とくに、キッチンまわりが充実しすぎている。
 昔は電気ケトルなんてなくて、やかんでお湯沸かしてたよね。食器類も、こんなに棚が埋まるほど揃っていなかったはずだし。冷蔵庫の中、ビール以外まともな食品が入っていないのに、なぜか調味料はちゃんと料理する人のラインナップだし……。

 考え出したら止まらなくなって、今度は壁際に目を向けた。

 2年も経てば、部屋の模様もレイアウトも、それなりに更新されている。間取りは確かに見覚えがあるけれど、かつての自分が足しげく通った場所という記憶に、ちょっぴり自信がないくらいだ。
 それでも、曖昧な思い出が描き出す諏訪の部屋と、ここだけはそっくり同じだと思った。
 壁の半面ほどを覆う背の高い本棚。分厚くて、重そうで、数百冊入れてもビクともしなそうなその棚板が、隙間なく本で埋まっている。
 並んでいるのはほとんどが推理小説で、私も、諏訪がおすすめする順に読み進めたから、読んだことのあるタイトルばかりだ。
 古びた文庫本から、わりと新しめのハードカバーまで。だいたいは作者ごとにまとまっているけれど、上段の一角は、とくにお気に入りが集まったスペースだった。そこに仲間入りしている知らない数冊は、新しく諏訪のお眼鏡にかなった作品ということだろう。

 引っかかりを覚えたのは、最上段、無造作に乗せられた段ボール箱。
 蓋が閉まっていなくて、中から溢れたように白いTシャツがはみ出している。ちらりと見える首の開きや肩幅が、諏訪のガタイと比べて明らかに小さい﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅

「…………」

 天井近くの1点を見つめてぼうっとしていたら、逆側から「おい」と乱暴な声で意識を引き戻された。

「話聞いてっか?」
「え?」
「だーかーらァ、おめー、今日どっか行きてえとこあんのかって」

 いつの間にか、ベッドの淵に横並びになるように、諏訪がすぐ隣に腰を落ち着けていた。スマホを片手に、ちらりと見える検索画面は近隣の映画上映情報だろうか。

「つってもなあ。市内じゃロクな選択肢も……おら、俺にばっか考えさせねえで、おめーも案出せ」
「行きたいところ……」

 真面目にデートプランを練ってくれている恋人の隣で、うわの空になっていることに気付かれたのか、訝しげな顔がこちらを伺う。

「んだよ、言いたいことがあんならちゃんと言え」
「あのね、諏訪」
「あン?」
「諏訪が、私と別れた後に、誰かそういう関係の人がいたとしても、私、別に怒ったりしないよ」
「はあ?」

 唐突な切り込みに、諏訪は面食らったように、ただでさえ鋭い目付きをさらに吊り上げた。
 なるべく気を使わせないように取り繕ったら、なんとも不自然な言い様になってしまった。

 私の元彼のことはこの間知られてしまったけれど、それについて深く言及はされないし、諏訪の方がどうだったのか、私は全く知らない。もしかしたら、諏訪的には触れられたくない話題なのかもしれない……けれど、こうも露骨に存在を仄めかされると、気になるものはやっぱり気になるのだ。
 中途半端に疑念を抱くくらいなら、いっそはっきりさせてしまいたい。

「だからね。あんなところに押し込めてないで、返してあげたらいいんじゃないかなあ」

 それとなく方向を示した私の視線を追って、諏訪もその先にある物を確認する。
 一瞬考えて、察したようにもう一度こちらに向き直った彼は……それはそれは、心外そうに顔を歪めた。

「なァにめんどくせえ勘違いしてんだ、おめーは」
「わっ」

 上から押さえつけるように頭を掴まれ、左右に揺さぶられた。私の髪を思う存分ぐしゃぐしゃにして、立ち上がったその手が、おもむろにダンボールを下ろす。

「んな気になんなら、好きなだけ見ろ。言っとくが何も面白かねーぞ」
「……個性的なデザインだね?」

 一部分だけ観測していたTシャツの全貌が明らかになる。
 広げてみると、サイズは私が着てちょうどいいか、少しゆったりするくらい。白いオーソドックスなコットン生地で、前面にでっかく、カツカレーのイラストが描かれている。
 カレー柄の服。
 誰がどんな時に着るものなのか全然想像がつかないけれど、少なくとも、恋人の家に来た女性のものではなさそうだ。

 箱の中には他にも、謎のグッズが詰め込まれていた。
 服が多くて、Tシャツやパーカー、それもサイズが極端に大きかったり小さかったりするものが何枚か。片方だけの靴下。充電ケーブル。ベルト。コンビニのお菓子か何かのおまけ。男物のボクサーパンツまで。

「酔っ払いどもが忘れて帰んだよ。あいつら、持って帰りゃしねえ」
「置いて帰るの? パンツを?」

 どういう状況……? と首を捻るも、たまに行く大学の飲み会で羽目を外した同世代の様子を思い返すと、彼らの行動にツッコミは野暮なのかもしれない。

「じゃあ、これは?」
「あ? 雷蔵が箱で置いてったインスタントのスープだな。二日酔いの朝にや重すぎて大不評だ」
「冷蔵庫の調味料……」
「いつの間にか増えてんだよ。レイジが来るたび買い足してんだろ。つかおめー、まさか昨日からんなくだらねえこと考えてやがったの?」

 この女性サイズのTシャツは、と続けようとして、思いとどまった。ここまで来ればもう想像が付きすぎる。

「……、引き出しに入ってたコン……」
「だあああ! アホか、おめーが来る前に用意したに決まってんだろーが! 未開封だったっつーの!」

 呆れ顔で見下ろされるのがムカついたので、ささやかな意趣返しを試みてみた。
 慌てて弁明する様子に少しは溜飲がさがる。紛らわしかったのは事実だもの。 

 ひと通り取り乱した後、気を取り直すように肩を落とした諏訪が改めて主張する。

「あのなあ。仮におめーが想像するような関係のやつがいたとして、私物を残しとくなんざ未練がましい真似、俺がするわけ」

 不意に、再生停止ボタンでも押されたかのように、発言がそこで途切れた。

 口を開けたまま固まった諏訪の顔には、ありありと、何か都合の悪いことを思い出してしまったと書いてある。
 数秒宙を彷徨った後、気まずそうに寄越される視線。

「……怒らないよ?」

 空気を読んでフォローしたつもりだったけれど、彼はますます頭を抱えて悩み始めた。
「あー」とか「うう」とか、苦悶の末、意を決したようにクローゼットに向かう。

「たしかこのへんに」

 いくつかの段ボールを床に下ろして、最終的に諏訪が手にしたのは、10センチ四方程度の小さな箱だった。お土産で貰うような、ちょっと良いお菓子の空き箱だ。
 どうするつもりだろうと見守っていたら、それはおもむろに私の目の前に突き出された。

「返す。これはおめーの」
「え?」

 予想していなかった言葉に、反射的に聞き返す。
 決まりが悪いような、少し照れたような眼差しが、有無を言わさず促してくるので、戸惑いながらもそれを受け取る。
 私のものだと言われても、心当たりはなかった。諏訪と別れた時、自分のものはここには何も残さず去ったはずだ。
 上蓋をそっと持ち上げる。

 中身を目にした瞬間、思考の一切が消し飛んだ。

「…………!」

 入っていたのは、鍵だった。

 ごく一般的なシリンダー錠。どこか古ぼけたような、鈍く光を帯びた薄い塊がひとつ、スカスカの箱の底にひっそりと横たわっている。
 若干黒ずんだボールチェーンには、赤いバンダナを巻いた犬のフロッキーマスコットが繋がっている。
 添えられたメモ用紙に、見覚えあるメッセージ。 

『ごめんね。勝手に私物片付けさせてもらった。今までありがとう』 

 私の、字だ。

「どうして……」

 鍵と諏訪とを見比べながら、掠れた声で投げかける。
 それが精一杯だった。頭の中は想定外のことに狼狽えるばかりで、込み上がってくる感情の処理に追いついていない。

「……前みてえに、いつでも来いって言うわけにはいかねえけどよ。持ってりゃ何かと便利だろ」

 何でもないように言い切られた。その答えが絶妙に的を外しているって、こいつは分かっているはずだ。
 分かっていて、わざとはぐらかそうとする態度を、今回ばかりは見逃してあげられない。

 胸がきゅうっと締め付けられて苦しい。続く諏訪の言葉が、どうか私の望むものであって欲しいと、せめぎ合う期待と不安が視線に宿る。

 ごまかしが効かないと伝わったのか、諏訪は認めたくなさそうに、けれど観念したようにぼそりと呟いた。

「悪かったな、未練がましくて」

 ――ぱたた、と、水滴が連続で撥ねる音がした。

「おい!?」

 弾かれるように身を乗り出したシルエットが、視界の中でブレて見える。慌てふためく顔はどんどんぼやけていって、再び水滴が撥ねるリズムとともに、一瞬だけ鮮明さを取り戻す。その繰り返しを呆然と眺める。
 両眼にかかる邪魔な膜を追い出そうとして、何度も何度も瞬きをした。けれど、もう止まらなかった。
 頬を伝う大粒の涙が、手に持った紙箱の表面を叩いて、小さなシミを際限なく作っていく。
 涙と同じように、溢れ出した様々な想いが理性を押し流していった。感情の濁流に攫われながら、私の心はある記憶に辿り着いていた。
 
 ああ、思い出しちゃった。
 この鍵を、もう二度と使えない事実を、最後まで割り切れないまま、震える手でポストに落とし入れた時の気持ち。 

 宝物だったんだよ。諏訪に特別だって言ってもらえてるみたいでさあ。
 初めて扉に差し入れた日は、本当に好きな時に会いに行けるんだって感動したの。
 私がはしゃいでそれを話したら、諏訪だって満更じゃなさそうな顔、してたじゃん。

 手放したくなかったよ。この鍵も。この部屋での日々も。諏訪の隣っていう居場所も。
 全部、本当に大事なものだったのに。

 そうやって執着心を捨てられないこと自体、諏訪の迷惑なんだと思ってた。
 こんなに苦しいのも、思い出に縋ってしまうのも、私だけの一方的な想いだって、再会するまでずっと、そう思ってて。
 けど、ねえ、もしかしてそうじゃなかったの?

「……っく、ふ……っ……」

 握り締めた手の中で、金属同士が擦れ合う硬い音が響く。
 この鍵は、間違いなく私が手放したものだ。
 諏訪がゲーセンで取った、あまりよく知らないキャラクターのキーホルダーが付いている。文面上だけは強がってみせた手書きのメモも、覚えている。
 全部、ポストに残してきたあの日のまま。
 使い回すでも、処分するでもなく、封印するように今日までクローゼットに仕舞われていた。

 この鍵が諏訪の「未練」だって言うのなら。

 私が苦しかったとき、会いたくてたまらなかったとき。諏訪も同じように思っていてくれたのかもしれない。
 離れてもなお想いを募らせていたのは、私だけじゃなかったのかもしれない。

「……ぅ……っ……」

 別れの真相を知ってからも、諏訪の真意にだけはどこか向き合い切れていなかった。
 そうだよ、私、怖かったんだ。諏訪と私の想いが食い違ってしまうことが怖かった。 

 自由恋愛が許されない私。諏訪以外、条件の揃う恋人を作れる可能性なんて奇跡に等しい。
 そんな私を、人一倍世話焼きなこの男が放っておけるだろうか。
 同情だとか、慈悲だとか、あるいは過去に私を傷付けたことへの贖罪だとか、そういう感情が混じったとしても不思議じゃない。 

 私が言う「好き」と諏訪が言う「好き」が、同じじゃなかったらどうしよう。

 いつか突き付けられるかもしれないその恐怖が根底にあったから、ふたりの関係を深めていくことに積極的になれなかったのだ。
 一度は切り離された関係だからこそ、証明のしようがない想いの形に疑心暗鬼になっていた。
 だけど。 

 だけど、これだけは確信したよ。
 まだ何にも縛られていなかったあの頃、私たちは、確かに同じ形で想い合ってた。
 簡単に切れる想いじゃなかったって、諏訪の「未練」が教えてくれた。
 私は一度も、勘違いなんてしていなかった。

 だったらこれも勘違いじゃない?
 今、私を求める諏訪の心が、私と同じだけ熱を灯していること。

 私にとっての幸せが、諏訪と一緒にいることであるように。
 私と一緒にいることが、諏訪にとっての幸せなんだって……
 私、もう一度信じてもいいのかなあ……!

「……っ……わあああん……!」

 自分の心境を紐解いていくにつれ、暴走してどうしようもなくなった感情を発散するように、声を上げて泣いた。
 涙腺から、喉奥から、身体の中身を無理矢理絞り出されているような感覚。何もかも出ていくばかりで、酸欠で頭が割れそうだ。

 両手の裏側を必死で目もとに押し当てていたら、その手が引き剥がされて、代わりにもっと大きな温もりに包まれた。
 無骨な親指が、とめどない滂沱ぼうだき止めようと、慣れない手付きで目尻を拭う。

「悪い、泣かせるつもりじゃなかった」

 違うよ、諏訪は何も悪くないよ。
 それを伝えたいのに、声を発する器官が軒並み正常に機能していない。何か言おうとしても、言葉になる前に嗚咽が込み上げてかき消えてしまう。

 首を横に振りながら、あうあうと意味をなさない音をぐっと飲み込んで、やっと口にできたのは本当に短い単語だけ。

「すき」

 この気持ちは、もっと大切に、もっと伝わるように届けたかったのに。
 子どもみたいに泣き喚きながら、呆れるくらい見苦しい告白だ。

「すき、すわ、すき……ほんとは、ずっと、ずっと……ずっと言いたかった……!」

 うわごとのような単語の羅列。最後の方は、ほとんど搾りかすみたいな声しかでなくて、やっぱりまともな言葉にならなかった。
 顔に触れた指先に、ぐっと力が入る感触。

「……ああ、悪かった、突き離して。おめーはもっと怒っていい。恨みごとならいくらでも聞いてやる」
「ちが、諏訪は、わるく、な……わるく、ないから、……もう、好きって、がまん、しなくてもいい……?」
「っ、言えよ! あたりめえだろ! 何回言われたって足りねえわ!」
「……好き……」

 そのひと言を皮切りに、発言の自由は奪われてしまった。

 最初はひたすらにしょっぱい涙の味。遅れてタバコの余韻が漂ってきて、焦げた葉っぱと、コーヒーの苦味が混じり合う。
 与えられる感覚はさらに深みを増していく。
 何回でも、みたいなこと言っておいて、これ以上私に何も言わせる気もなさそうに、息つく暇なく求められる。

 相変わらず涙は止まらなくて、ふたり触れ合う部分はどこもべしょべしょだった。
 諏訪が、それも厭わず私を抱きしめるから、私も大人しくそれに応えるしかなかった。

 2月の朝、優しい光が差し込む部屋で、飽きるまで交わしたキスは、もう不安なんか抱く余地もないくらい、私の心に巣食う呪いを溶かしていった。

 

 
「ねえ諏訪」
「あー?」
「今日、やっぱどこにも行かないで、ここでずっとふたりきりがいいかも」
「っは、なんだそりゃ、誘ってんのか?」

 私の肩を抱きながら、冗談めかして諏訪が笑う。
 私も、早くなる鼓動を気取られないように答える。

「そーだよ」
「!」

 わざと甘えるように擦り寄って、上目遣いで見つめたら、案の定ちょっと嬉しそうな照れ顔が見れて気分が弾んだ。

「おめーは……! やめろ、帰したくなくなんだろ」
「諏訪、満更じゃなさそう」
「ば〰〰〰〰か」

 がばりとのしかかられても、もう恐怖は感じなかった。
 

 テーブルの上で、小さな鍵がキラリと反射している。

 次にこの鍵を扉に差し込むときは、心から「ただいま」って言葉と一緒に。