椎名翼の幼馴染

1-1 プロローグ

『次は――――駅、――――駅』

 車内アナウンスがその懐かしい地名を告げると、麻衣はもう待ちきれなくなって座席を飛び退いた。
 降車側のドアに近づき、窓外を眺める。
 流れていく風景は徐々にスピードを緩め、やがて古ぼけた駅名標を前に、完全に停止した。

 ――――帰ってきたんだ、本当に!

 羽田から1時間半、電車を乗り継ぎたどり着いたのは、生まれ育った思い出の街。

 改札を出ると、あまりの陽射しの強さに思わず目を細めた。
 出立前に確認した関東地方の気象予報は連日晴れマーク。太陽だけでなく、焼いた鉄板並みに熱を持ったアスファルトからも、ジリジリと熱気が立ち込めている。
 けれど、この身を焦がすような暑ささえ、麻衣の胸を高鳴らせる材料に他ならない。

 すかんと抜ける青い空。
 懐かしい街並み。
 鼓膜を震わせる蝉しぐれ。

 何かが始まりそうな予感を抱くには申し分ないシチュエーションだ。

 1998年7月、東京――――
 高槻麻衣の新たな日常が、期待とともに幕を開ける。

(もうすぐ、アイツに会える)

 はやる気持ちに呼応するように、トレードマークの長いツインテールが弾みながら左右に揺れた。

***

 両親の海外転勤の話を聞かされたのは、2ヶ月ほど前のことだ。
 大手化粧品メーカーでマーケティングを統括する父と、同じ会社の商品開発部門で研究職の母。2人は今度、グローバル展開を視野に入れた一大プロジェクトとやらに抜擢されたらしい。新設の海外支部に配属が決まってしまった。
 引越しを伴う辞令はこれで2回目だ。約2年半前、麻衣が小学6年生に上がる前の春、東京の持ち家を引き払って家族で地方に移り住んだのも、両親の本社転属が理由だった。
 今度の配属先は海外。義務教育すら終えていない娘を連れて行くには、現地の教育環境にいささか懸念がある。
 検討の末、日本に残されることになった麻衣は、今日から下宿先として世話になる知人宅へと向かっていた。

「おばさん、相変わらずなんだろうなぁ」

 美人だが、謎に茶目っ気のある笑顔が脳裏に浮かぶ。
 転校と言われたときは正直気が重かったが、紆余曲折経て、結果としてまたこの街に戻れたのはラッキーだった。いつか再び上京する手立てを考えていた麻衣にとって、思いのほか早く念願叶った形だ。
 呼び寄せてくれた昔馴染みのその女性には大感謝である。彼女にも早く会ってお礼を言いたい。

「おおー、あんな大きなスーパーできたんだ。あ!あの家の柴犬、相変わらずお腹出して寝てる」

 目的地までの道すがら、2年半ぶりの景色を噛み締める。
 ところどころ真新しい建物もあるが、それも駅前までで、少し歩けばまるで時が戻ったように馴染みの路地に行き着く。変わらぬ風景に感動もひとしお。それなりに大変だった長旅も、ここまで来ればもう、迷うどころか無意識にでも歩いて行けそうだ。
 東京といえど、都心からは何駅か離れた閑静な住宅街。道路は対して広くもなく、人の往来もまばらである。ただ、夏休みの真昼間だけあって、駆け回る子どもたちとはあちこちですれ違っていた。

「おにいちゃーん、あたしのボール……」
「ああもう、何やってんだぽんこつ!」

 その会話が耳に入ったのは、住宅の狭間の小さな児童公園に差し掛かったときだった。
 幼い子どもの声が、あまりに悲嘆にくれていたので、気になってつい足を止める。
 入り口から中を覗いて見ると、小学校低学年くらいの男の子と、さらに小さい女の子が、並んで公園内の木を見上げている。まわりに大人の姿はなく、どうやら2人だけのようだ。

「どうしたの?」

 いたたまれず声をかけると、お兄ちゃんと呼ばれた男の子が決まり悪そうに上を指差した。
 木の幹が枝分かれした隙間に、ピンクのゴムボールが挟まっている。

「あらら、取れなくなっちゃったのか」
 
 何かの拍子に跳ね上がってしまったのだろう。ゴムボールは、背の高い大人でもギリギリ手が触れるかどうかの高さですっぽり食い込んでいる。身長150cmの麻衣では、ジャンプしても届きそうにない。
 声をかけたのがそんな麻衣だったからか、男の子はどこか期待はずれの様子で足元の砂利を蹴っている。女の子はずっと涙目だ。
 ふむ。と麻衣はその場をうろつきながら思案を始めた。
 ボールまでの高さ、入射角。それらを観察してだいたいの位置に当たりをつけると、肩に乗っていたadidasのスポーツバッグを近くにおろす。パンパンに膨らんだそれは、地面につく瞬間、ボスンと見た目どおり重量感のある音を立てた。

 取り出したのはサッカーボールだった。

 手の中で内回りに数回転させ、宙に放つ。ぽんぽんと慣れた調子でリフティングを始めると、幼い2人の視線はすぐに麻衣に釘付けになった。
 まるで見えない糸で繋がれているかのように、麻衣の身体から離れず、一定のリズムを刻み続けるボール。とくに男の子の方が興味津々に目で追っている。彼はサッカーが好きなのかもしれない。
 かわいらしい観客たちにいいところを見せたくて、麻衣はより一層集中して目標までの軌道をイメージした。
 真っ直ぐ下から突き上げなければうまく引っかかりを外せないだろうし、強く当てすぎても柵を超えて道路に飛び出してしまう可能性がある。
 サッカーシューズではなく普通のスニーカーなので、当たりの感触はいつもと違うが、問題ない範囲だろう。

(1発で決める)

 ふっと短く息を吐き、インステップで蹴り上げた麻衣のボールは、狙い通りの絶妙な角度でゴムボールにヒット。木の枠から解放されたそれは、すぐ下の地面に落下した。
 女の子が駆け出していってキャッチする。
 ピンクのボールを大事そうに抱えた少女は、すっかり泣き止んでいた。

「おねーちゃん、しゅごい!ボールけるの、じょーず!」

 無垢な賞賛を向けられ、麻衣は少し照れたようにはにかんだ。
 わざわざ蹴らなくても投げれば良かったのでは?などと胸中でセルフツッコミが入るが……いいじゃん、やってみたかったんだから。

「こら、まず、ありがとうございますだろ!」

 しっかり者のお兄ちゃんに促され、舌ったらずに「ありあとごじゃます」と頭を下げる兄妹の様子を微笑ましく思う。
 なんだか、昔の自分と重なるようだ。

 自分にも兄のような存在の幼なじみがいた。この公園、2人で日が沈むまでリフティングの練習したっけ。中央にひとつだけある街灯の下、心許ない明かりで黙々とボールを蹴り上げる昔の記憶がフラッシュバックする。

 兄妹に手を振り、児童公園を後にする。

 その幼なじみと、もうすぐ再会する。さっきまでそればかりを楽しみにしていたのに、いざその瞬間が近づいていると思うと、なんだか気恥ずかしいような、そわそわと落ち着かない気持ちに苛まれる。
 会ったら最初になんて言おう。久しぶりの再会を、彼も喜んでくれるだろうか?

 目的の家――椎名家は、もう目と鼻の先だ。