椎名翼の幼馴染

1-10 武蔵森学園②

 大方の予想を裏切ることなく、試合は4-0で武蔵森が準決勝へとコマを進めた。
 点差もさることながら、試合内容も圧勝だった。相手に何もさせない、お手本のようなポゼッションサッカー。多くの部活チームが数人の上手いプレーヤー頼みの構成である中、武蔵森はフィールド全員の技術水準が高い。隙のないパス回しがその証明だ。

 麻衣はふたたび映像を巻き戻した。帰宅してからもう2時間ほど、リビングのテレビとテーブルを占領し、ビデオを確認しながらひたすらノートにペンを走らせている。
 完全に集中モードのようで、先ほどからじっと手元を覗き込んでいる視線には気づかない。

「シュートスタッツ? と、こっちはキーパーのセーブ数か」

 声をかけられ、ようやく手が止まる。思い出したようにまばたきを数回して、麻衣は横にいる翼に向き直った。

「翼。――うん、明日の作戦会議までにちょっとでも情報集められないかと思って」
「殊勝な心がけだね。それで何か分かった?」
「んー、もうちょっとちゃんと見たいところではあるけど」

 ボールペンの頭に唇を押し付けて考える。
 ふと、試合観戦中の翼と玲の会話がよぎった。

「武蔵森には東京選抜の……翼のチームメイトもいるんだよね? たしか、9番、3番、それにGK」

 ノートに描きこまれたフォーメーション図上、9、3、1と記された数字が赤丸で囲われる。武蔵森は全員レベルが高いが、中でも特筆すべきプレイヤーを上げるとしたら、間違いなく外せない3人だ。

「こっちが向こうを知ってる、ということは、向こうもこっちの戦力を知ってるってことでしょう? 翼(リベロ)と柾輝(左サイドアタック)を起点にした攻撃には対策を練られてると思う。9番を前線に残して、10番・11番がIHと並ぶ4-1-4-1の形になると、サイドはかなり動きにくくなるよね」
「悠長にビルドアップしてる暇はないだろうね。速攻切り崩すしかない」
「うん。ポゼッションに対抗するにはやっぱりカウンター。飛葉はもともとショートカウンターが持ち味だけど、武蔵森にハイプレスを仕掛ける場合、9番のドリブル突破力と足の速さはかなり警戒しないといけないと思う」

 ハイプレス戦術は成功すると攻撃に大きく有利な反面、最終ライン裏に広大なスペースを開けるというリスクを背負うことになる。9番のような足の速いドリブラーは天敵だ。万が一ロングボールが通ってしまった場合、こちらのGKとほぼ1対1の状況に持ち込まれる。

「高めのプレスといっても、最終ラインはあくまでディフェンシブサード内。相手が中盤でボールを回してるときに奪って、両サイド使ってすぐに攻撃転換、ああでも、相手もそれは読んでくるだろうから、パスコースはむしろ裏をかいて……」

 脳内で試行錯誤した内容をそのまま口から吐き出すがごとく、夢中で話続ける麻衣。隣の席に座った翼は、とくに口を挟むことなく黙って聞き続けている。
 やがて、隣からの無言の視線に耐えられなくなった麻衣が、居心地悪そうに口を尖らせた。

「何よ。間違ってるなら黙ってないで指摘して」
「別に間違ってるなんて思ってないけど。――麻衣って、こんなに戦術について語るヤツだったっけ?」

 問われた内容に思い当たる節があり、麻衣は一瞬、言葉に詰まった。
 小学生時代、翼との会話はやはりサッカーの話題が中心だったのだが、誰それの技術が凄いだとか、海外のスーパープレーだとか、もっぱら個人技にフォーカスしていたように思う。全体のシステムについて意見を交わすことなどほぼなかった。
 基本的に正面突破しか芸のなかった自身のプレーも、最近は極力衝突を避け、敵味方の配置を見ていかに裏を取るかという奇襲スタイルに変わっている。翼からすれば意外な変化だろう。
 ただこうなった経緯を説明するには、少しばかり情けないエピソードを語る必要がある。

 まあ、翼に対してはカッコつけるのも今さらか。
 少しだけ悩んで、麻衣は率直に話してしまうことにした。

「あのときは翼がいたから。翼の作戦を信じていればよくて、自分で攻め方を考えてみようなんて思ったことなかった」

 麻衣の言葉に、翼は若干面食らった表情を見せた。

「向こうのクラブでわたし、全然活躍できなかったんだよねー。上手くなったつもりで、どんな相手にも渡り合えるってさ。勘違いしてたの。わたしが試合で戦えてたのは、翼の指示で活かされてただけだったのに」

 翼のいない少年クラブチームでは、麻衣はせいぜい、ちょっとばかりボールコントロールの上手いただの女の子だった。
 6年生ともなると、男子との体力差は埋めようもなく、技術があるだけでレギュラーにはなれない。試合の中で自分の役割を示せなかった麻衣は、今までフィジカル面の弱みを、翼の戦術によって補われていたのだと痛感したのだった。

「当たり負けするうえに、1人じゃ戦い方も分からないもんだから、試合で全然通用しなくて。さすがに焦って、戦術も工夫してみたんだよ? けど、気づいたときにはもう、どうしたって男子に追いつけなくってさ。そんなこんなで中学からマネージャーになったんだけど、外から何試合も見てるうちに、俯瞰して考えることに慣れたみたい。変わったとしたらそれからかな」

 試合展開を綴ったノートはもう何冊にもなる。スタッツを集計すると、その試合のコンセプトのようなものが見えてくる。チームの特性、選手の特性。何が得意で、どんな攻撃に弱いのか。
 翼のように、展開を自ら創る強気な読みやアイディアのセンスはない。結局自分にできることは観察しかなかった。見たものを分析し、攻略法を考える。今まで個人技しか見ていなかったのを、ゲーム全体まで視野を広げただけで、やっていること自体は何も変わっていない。
 
「まぁ戦術については的はずれなこと言うかもだから、聞き流してくれていいんだけど。でも、ヒントになりそうな情報の整理だったらわたしでも役に立てると思うから。いまちょっと張り切ってるんだ」

「お前…………、いや」

 翼が珍しく言い淀んだ。
 不思議に思って目線を合わせてみるが、それ以上言葉を続ける気はないらしい。
 まったくそんなつもりは無かったのに、妙にしんみりとした空気になってしまい、沈黙が少しばかり気まずい。

「あ、ねえ翼」

 話題を変えようと、麻衣はまたテレビ画面に視線を戻した。

「10番のひと、なんで選抜落ちちゃったの?」

 一時停止された画面には、コートの半分ほどが映され、ちょうど中央付近で今まさに武蔵森10番がボールに向かって脚を振り上げている。後半5分、3点目が決まる直前の瞬間だ。
 選抜の3人はたしかにズバ抜けて上手い。しかし、今日の試合で最も目立った活躍をしたのはこの10番であると麻衣は考えていた。
 彼に関しては、試合中隣で観戦していた玲も、興味深い反応を見せていた。

『彼、合宿中よりもずっといいわ。プレーが伸び伸びしてる。変なこだわりから解放されたのかしら』

「こだわり……ね」

 同じことを思い出したのだろう、玲のセリフを翼が復唱した。

「選抜合宿のときのアイツは、まぁ技術はそこそこだったけど、中盤のメンツの中では埋もれてた。プレッシャーにでもやられたんじゃない? 玲が言ってたのは、たぶんアイツのトップ下へのこだわりだろうね。俺が司令塔だ! って自己中丸出しのプレーでさ。ワンパターンだから守りやすかったよ」

 その話が本当だとしたら、たしかに今日の印象とはかなり違う。
 今日の試合での10番は、ワンパターンどころかむしろバリエーション豊かにさまざまな攻撃パターンを組み立てていた。決定的なシーンでは必ず最終アシストを決めていたし、セカンドストライカーとして3トップに展開したり、相手DFへの積極的なプレス、一度下がってビルドアップに参加するなど、1人で何役も貢献していた。
 オールラウンダー、というより、勝つためなら何でもやるという泥臭いプレースタイルだ。

「10番……三上亮」

 その日麻衣のノートには、その名が書かれたページが1番密度濃く書き込まれることになった。

 

***

 

「ねえ君。さっきから中入りたそうにしてるよね。誰か探してるの?」

 威厳ある行書体で書かれた「武蔵森学園」の門札を前に、いざ敷地内に踏み出そうと覚悟を決めたところで背後から呼び止められた。
 同世代と思わしき男子3人組。背中にテニスラケットを背負っている。1人が照れ混じりに話しかけるのを、残り2人が少し後ろからそわそわと見守っている。

 麻衣は咄嗟のことに焦り倒した。何かそれらしい言い訳をと慌てた結果、元来嘘がつけない性格が出てしまった。

「えっと、その、サッカー部に……!」

 馬鹿正直に漏らしてしまった口を、遅いと知りながらあわあわと押さえる。どこの世界に、偵察に来たことを正面切って自白する人間がいるのか。

 昨晩遅くまで試合の分析を続けていた麻衣だったが、武蔵森攻略に悩み続けた結果、あるひとつの結論に辿り着いた。
 1試合では分からん。
 強豪校にはありがちなことだが、戦術も出場選手も対戦校によって変わるのである。観戦した試合で武蔵森が戦っていたのは、飛葉中とはまるで違う性質のチームだった。
 真面目に対策を打つなら、さらに情報が欲しい。
 幸い準決勝までは1日のインターバルがある。今日の練習内容を探れれば、相手がどんなプランをぶつけてくるかある程度想像できるかもしれない。

 そんな期待が麻衣を行動に移させた。
 すべては明日の勝利のためである。個人的な好奇心などではない、決して。

 後先考えずに学園にやって来て、冒頭に至る。スパイ行為を咎められると覚悟した麻衣だったが、少年たちは別の受け取り方をしたようだ。サッカー部という単語を聞いて、あからさまにテンションが下がっている。

「くっそ、まーたサッカー部かよ」
「アイツら活躍してるからってモテやがって」
「ちくしょー! 地区大会止まりの肩身の狭さ思いしれ!」

 何やら私怨めいた苦情が並び立てられる。戸惑いながら様子を伺っていると、彼らは半ば敗北を受け入れたような面持ちで教えてくれた。

「サッカー部なら、今日は午後練っつってたから、12時過ぎるまでいないと思うよ」
「! ありがとうございます!」

 トボトボと引き返していく3人を見送って、校舎備え付けの時計を見上げる。10時55分。少しばかり時間がある。
 どこで時間を潰そうか算段をつけながら、麻衣は一度駅の方に引き返すことにした。