1-12 武蔵森学園④
「よし、各自休憩! 20分後に集合!」
「ハイッ」
渋沢の号令がかかり、1軍の選手たちは一時の安息を求めグラウンドから散っていった。
30℃をゆうに超える真夏日。頭から水でもかぶりたい気分だ。
それは物陰で張っている麻衣も同じで、熱った顔を手で仰ぎながら、スポーツドリンクで喉を潤す。買ったときは冷えていたが、もはやぬるま湯である。
収穫は上々だ。武蔵森は4-4-2ダイヤモンドから基本フォーメーションの変更はないらしい。WBを警戒しているのだろう、サイドの手薄さを補ういくつかの陣形が練られていたのと、2トップが左右に開きWGとして機能することで、飛葉の3バックを間伸びさせようという戦術が見受けられた。
(あとはこのデータを参考に攻略が考えられれば)
誰から誰にパスが渡ったか、どの距離・どの角度からシュートが放たれたか、麻衣は可能な限り記録した。なんとなくのパターンは把握したが、チームに共有するためにはもう少し整理する必要がありそうだ。
帰宅して情報を精査し始めるか、もうしばらく偵察を続けるか。集中して考え込んでしまった彼女は、背後から接近する気配に気がつかなかった。
「おい。お前、どこのネズミだ?」
完全にふいをつかれ、思考が一時停止した。
条件反射で全身がこわばり、応答しないまま数秒の間。まずい。これでは自ら不審者だと言っているようなものだ。麻衣の心臓が早鐘を打ち始める。
おそるおそる振り返ると、絶望はさらに深まった。腕を組み、こちらを怪訝に見下ろしていたのはあの10番。
三上亮。
麻衣は心の中でその人物の名を呼んだ。
一方の三上も、相手の顔を見て密かに一驚していた。
(……女?)
帽子を被った後ろ姿では分からなかったが、不審人物の中身は同世代の女子だった。
武蔵森にはたびたびスパイもどきが蔓延るのだが、女子というのは知る限り初めてだ。しかもこんな練習場の内側まで侵入してくるとは、大胆にもほどがある。
彼女はヘビに睨まれたカエルのごとく、地面に座り込んだ状態からピクリとも動かない。表情には明らかに焦りの色。これはなかなか、嗜虐心をくすぐられる。
さてどういたぶってやろうか。興味深いネタに食指を動かしていると、それは遠慮がちに口を動かし始めた。
「あの、わたし、2学期からこの学校に転校することになってて。見学してたら迷子になっちゃって〜……みたいな?」
言い訳としてかなり苦しいのは本人も自覚があるのだろう。本当にその嘘をつき通す気があるのか怪しいほど白々しい演技である。
「転校生ねえ」
「あっ」
彼女が持っている「いかにも」なノートを問答無用でひったくる。パラパラと指をかけ、適当に開いたページを音読する。
「武蔵森攻撃パターン①:2トップをワイドに展開し4-3-3に。WGが幅を取ることでDFの間隔を開き、OHが相手CBを中盤まで引き寄せて3バックのラインを――」
「わあーーーー!!!!」
すでに取り繕うことも忘れ、大慌てでノートを奪い返そうとする少女。三上はそれを片手であしらいつつページを読み進めていく。
(これは……)
思いのほかしっかりしたレポートであることに驚かされた。自分たちが使う戦術について、自分の理解以上にその意図の言語化がなされている。敵を含む全体の動きをこうして別の視点から説明されると、自分の役割もより明確に捉えることができる。端的に言うと、面白い。
からかい半分で取り上げたつもりが、気付けば三上はノートを熟読していた。
(この女が、これを?)
にわかに信じられない気持ちで麻衣を見やる。
自分より頭2つ分下から見上げる涙目。帽子の陰で気づいていなかったが、近くで見るとなかなか好みの顔をしている。
もっとよく見てみたくなって、帽子を摘み上げた。長く艶やかなツインテールが揺れながら落ちてきた。
「あ、あ、あの、三上……さん」
「あぁ?」
やがて無駄な抵抗を諦めた彼女が、気まずそうに申し入れた。
「その。不法侵入は謝ります。嘘ついたことも。なのでその……返してもらえませんか?」
虫のいい願いだと本人も分かっているのだろう。しかしこのノートには、今現在見聞きしたであろう情報の他にも、さまざまな試合のレポートが書き記されている。このまま引き下がるわけにはいかないといったところか。
「お願いします! なんでもするので!」
「なんでも、ねえ」
パタン、とノートを閉じた三上の顔に、意地の悪い笑みが張り付いた。少女は少し身構えながらも、なんらかの賄賂が通用しそうな気配に期待している。
三上はニヤニヤしながら言い放った。
「そうだな、じゃあ……俺の女になれ、っつったらヤらせてくれんの?」
三上には自分はモテるという自覚があった。こういう軽口は言い慣れていて、この場合大抵の女子は真っ赤になって狼狽するか、本気にするかのどちらかだ。それをいじってバカにしようとしたのだが――目の前の女子の反応は、そのどちらでもなかった。
「何を?」
三上の提案は、シンプルに意味が伝わっていなかった。
全面に疑問符を浮かべ、ぽかんとした顔がこちらに向けられている。はぐらかすわけでもなく、本当にピンと来ていないという様子に、三上はプライドを傷つけられた気がして、意味もなくイラッとした。他人をからかって遊ぼうとするくせに、反撃をくらうのは気に食わない。
「何ってそりゃ」
彼女の耳元に顔を寄せ、至近距離で囁く。
今度は遠回しな言い方はせず、懇切丁寧に説明する。中学生には少々刺激が強すぎる卑猥な言葉をわざと選んで。
瞬間、世界が暗転した。
「――――ぐぉッ」
三上は自分の身体が浮遊する感覚を覚えたかと思ったら、背中から地面に落下した。何が起こったか理解が追いつかないままに、遅れて痛みがやってくる。
頭上の少女は首まで真っ赤にしてこちらを睨みつけている。グラウンド側から「今何か物音がしたか?」と数人の声が聞こえた。
「セクハラ、最低……! エロ親父! チャラ男!」
はくはくと口を動かす彼女は、今にも叫び出しそうなのを必死に押さえた様子で、小声で三上を罵倒した。
護身術でも習っていたのだろうか。軽々と投げ飛ばされた三上は、地面に背中を付けたまま、ぼんやりとそれを眺めた。不思議と怒りは湧いてこない。ただ、赤くなったり青くなったり、慌てふためく彼女の挙動から目が離せないでいる。
ここまで単身乗り込んでくる度胸。女だてらに豊富なサッカー知識。冗談は通じないし、反応すべてが斜め上。こんなにも自分の想像を裏切ってくる女は初めてだ。
三上は、先ほどノートを読んでいて見つけた言葉を思い返した。「武蔵森10番 三上亮」とご丁寧にタイトルがふられたページの右上。
『武蔵森らしいサッカーを1番体現している人』
もしかしたらそれは、ずっと自分が誇りに思っている自分に対し、他人から受けた初めての評価かもしれなかった。
「ほらよ」
「!」
立ち上がった三上から素直にノートを差し出され、少女は狼狽えた。受け取っていいものか判断しかねている彼女に、三上が小バカにするように言う。
「バーカ。んなもん知られたからって俺らが負けるかよ。そのかわり、お前の名前」
「――――高槻麻衣」
麻衣。
そう復唱した三上は彼女にノートと帽子を押し付け、何か言われる前にさっさと踵を返した。休憩時間ももう終わる。遅れて監督に小言を言われるのは避けたい。
書き記された内容から察するに、彼女は飛葉中の人間で間違いないだろう。
三上はほんの少し、明日の試合を待ち遠しく感じた。
***
「新入部員のくせに早速無断欠席なんて、随分厚顔無恥な輩もいたもんだよねえ、麻衣?」
「…………オッシャルトオリデス」
玄関を開けた瞬間、満面笑顔の般若に出迎えられ、麻衣は表情を引きつらせた。
忘れていた。今朝はこの男に見つからないようこっそりと家を出たことを。置き手紙ひとつで部活を欠席したことに、部長様は大層おかんむりだ。
「どういうことか説明してくれる」
ぴらりと提示されたメモには、簡潔にひとこと「武蔵森を偵察してきます」とある。今朝、昨日のノートのコピーとともに机の上に置いてきた代物だ。
「あのね。とてもいい情報を仕入れられたと思う」
「……まさかとは思うけど、学校に侵入したりしてないよね?」
「じゃないと偵察できなくない?」
「麻衣!!!!」
知的好奇心の代償として、懇々とお説教をくらう羽目になった麻衣は、うっかり敵のレギュラーメンバーと顔見知りになったり、昔翼に習った護身術で投げ飛ばしたりしてしまったことは、あえて言うまいと心に秘めるのだった。