椎名翼の幼馴染

1-14 追想②

 クラブ入団から半年が経った頃、初めて所属チームの試合を生で観た。
 6年生までの選手混合で、近隣の8チームが参加する小規模なトーナメント大会。決勝点を決めたのは、レギュラー最年少、4年生の翼だった。

 選手たちの決死の叫び、激しい衝突、飛び散る汗。観客席まで一体となった会場の熱量は、テレビで見るのとケタ違いだった。
 勝ちたい。勝たせたい。勝ってほしい。両陣営から強い想いがヒシヒシと伝わってくる。
 そんな最終局面でこれ以上ない仕事をした翼は、チームメイトに揉みくちゃにされながら、今までに見たことないほど満足そうな笑顔を見せた。
 ああ、アイツはこの瞬間のためにサッカーをしているんだ。それが分かって、麻衣は胸をグッと掴まれる思いがした。

「一緒に練習しようって? 俺がお前と?」

 ある日、庭で自主練をしている翼に、思い切って声をかけてみた。
 特訓の成果もあり、今では麻衣も基礎的な技術はひと通り習得しつつあったが、サッカーは個人競技ではない。1人でもくもくと取り組むだけでは試合には出られないのだ。

「昨日の1対1練習、わたしまともに動けなかったから、次までにできるようになりたくて、その……」

 自分から誘っておいて、段々と声が尻すぼみになっていく。分かっている、翼と自分ではレベルが違う。まともな練習相手になるはずもないし、本当は素直に教えてほしいと言えないだけだ。
 どんな嫌味を言われるかと、呼び止めたことを半ば後悔していたら、翼が麻衣に向かって雑にボールを投げてよこした。

「いいぜ、付き合っても。その代わり、1度でも俺を抜いてみな!」

 家と塀に挟まれた、幅3mほどの敷地で翼が構える。重心を低くし、いつでも来いとばかりの挑発的な笑み。
 どういう風の吹き回しだろうか。てっきり一蹴されると思っていた麻衣は、困惑しながらもその前に対峙する。正直抜ける気はまったくしないが、挑戦しない選択肢はない。意を決してボールを蹴り出す。

「何そのテンポ悪いタッチ、フェイントのつもり?」
「足元、ボールと離れすぎ、それじゃ取られ放題だろ」
「スペースないんだから、無駄に横に流れんな!」

 仕掛けては取られ、逆に抜かれる。攻めのバリエーションがない麻衣に対し、見せつけるようにさまざまなテクニックを駆使する翼。どう考えても遊ばれている。やっているうちに、麻衣は腹が立ってきた。

「どーする、もう降参!?」
「ッまだまだ!」

 30分も続いた頃だろうか。ついに足をもつれさせた麻衣がその場に倒れた。立ちあがろうにも筋肉が震えて動けない。結局1度も翼を抜かすことはできなかった。

「体力ないなぁ、だらしない」
「……くそぉ……」

 仰向けに倒れた視界に、ボールを脇に抱え込んだ翼が割り込んだ。こちらは息も絶え絶えなのに、汗ひとつかいていないのが憎らしい。
 相手にならなすぎて幻滅されただろう。そう思っていたのに、なぜか翼は、そのまま麻衣の横にあぐらをかいて話しかけてきた。

「お前さ。いつの間にかリフティング、3-4年の中で1番上手くなってたろ。どんな練習したの」
「へ?」

 上手い? わたしが?
 思いがけない言葉に、麻衣は両目を瞬かせた。
 確かにリフティングだけは、この半年間、脇目も振らず取り組んできた。朝や休日の自主練含めて毎日。今やインステップだけでなく、ヒールや胸・腿といったあらゆる部位で正確にボールをあげる自信がある。知らないうちに、3-4年生で1番と評価されるまでになっていたらしい。――それはつまり、4年生の翼よりも、という意味だろうか?

「どんなって……たぶん、翼にとっては当たり前のことだよ。お手本見て、自分と見比べて、何が足りないか考えて。法則が分かったら、あとは必死に練習しただけ」
「ふーん」

 興味があるのかないのか、はっきりしない相槌を返される。翼から自分のことを聞かれるなんて、新鮮すぎてどうしていいか分からない。ぶっきらぼうな回答になってしまわなかっただろうか。

「あのね、翼のおかげなの」

 麻衣は勢いに乗じて、ずっと言えずにいたことを口にすることにした。

「クラブ入りたての頃、翼に、もっと頭使えってアドバイス?されて。バカって、そんなこと言われたの初めてだったから、悔しくて、絶対見返してやるって思った。そしたら、ほんとにわたし、何にも考えずに練習してたんだなって分かって。……気付かなかったらきっと、サッカーが楽しいって気持ちも知らないまま辞めちゃってた」

 自分でも言いたいことが途中でよく分からなくなって、言葉に詰まってしまった。けれど、そう。今こんなにサッカーに夢中になれているのは、間違いなく翼のおかげだ。だとしたらお礼の言葉くらいは述べたほうがいいのではないか。
 ありがとう、そのひとことを付け加えるために向き直ったら、隣の男は片手で口を塞ぎ、俯き加減でプルプルと震えていた。

「……ハハハハッ! それで言われたとおりに考えてやってみましたって? バカ正直すぎ! 嫌味真に受けるとか、鈍感通り越してある意味天才だな、それ!」

 腹を抱えて爆笑し始めた翼に、麻衣は、なぜ笑われているのか分からないまま顔が熱くなるのを感じた。せっかくこちらが歩み寄ろうとしたのに、やはり嫌いだ、この男。
 何も言えなくなってしまった麻衣を尻目に、ひとしきり笑い終えた翼が、息を整えながら続けた。

「ま、今の方が面白いよ、お前。なんか達観した気になって世の中に興味ありませんって顔してるより、夢中でボール追っかけてる時の方がいい目してると思う」
「面白いって……」
「気付かない? ボール見てるときの麻衣、おもちゃ見つけた猫みたいな目してんだぜ」

 え、と思わず顔を覆った麻衣を見て、翼はまた笑った。というか今、久しぶりに名前を呼ばれた気がする。

 その日を境に練習を共にするようになり、1年が過ぎ、翼ともまともな勝負ができるレベルになった頃――麻衣はMFの控え選手としてレギュラー入りを果たしていた。
 あの日感じた試合中のエネルギー。勝利への渇望に、今では麻衣自身も取り憑かれている。
 翼は本人の希望でDFへとコンバートした。曰く、試合の流れを組み立てる最上流はDF、ということらしい。

「CBの仕事はただ守るだけじゃない。ボールを奪った瞬間に攻撃が始まるんだ。コートの端から端まで、どこで奪ってどう運んでどうゴールするのか、最初の戦術判断を担うポジションなのさ」

 攻撃の起点を中盤ではなく後方から考えることで、戦術の幅は限りなく広がる。最終ラインで全体を見渡し、チームを指揮する。自分はそういうサッカーで世界を目指すのだと翼は言った。

「なら、翼の戦術を実行するプレイヤーが必要だよね」

 決めた、と麻衣は高らかに宣言した。

「わたし、翼のチームの10番になる。翼が頼れるような前線のゲームメイカーに。翼が奪ったボールは、全部わたしが入れるんだから!」

 思い返せば、子供の拙い発想だ。男女が同じフィールドに立てる期間は短く、この先もずっと側にいられる保証だってなかった。
 それでも、そのとき誓った気持ちが、今でもサッカーを続ける指針となっている。
 幼き日の大切な約束。

 

***

 

 目覚ましの30分も前に目覚めた麻衣は、寝ぼけまなこを擦りながら上半身を起こした。なにやら懐かしい夢でも見ていた気がするが、よく覚えていない。
 長い髪にブラシを通し、散らばる猫っ毛を押さえたところで、いつも通り2つに結わう。これがお決まりのスタイルになってもう2年半だ。うさぎの刺繍入りのシュシュは、転校する時に翼にもらった、麻衣の宝物だった。

 リビングに降りると、いつもより早い時間にも関わらず、翼もすでに朝食の席に着いていた。テレビでは朝の情報番組が、都内は今日も快晴の真夏日であると告げている。

「翼でも緊張で早く起きちゃうなんてことあるんだ」
「俺は昨日早めに寝ただけ。麻衣こそ寝れなかったんだろ。目の下にクマ」
「えっうそ」
「ったく、選手より落ち着かないでどうすんだよマネージャー?」

 昨日は武蔵森攻略について翼と延々議論を交わして、ベッドに入った後も考え続けていたから、たしかに寝付きが悪かったかもしれない。
 全国大会まであと2戦。出会って間もないチームだが、彼らの悲願を全力でサポートすると決めたのだ。

 かつてのような、フィールドでともに走る仲間ではないかもしれない。それでも、再び翼と同じチームで、同じ目標に向かっている。それがたまらなく嬉しくて、高まる興奮を抑えきれない。

 都大会準決勝の朝。絶対王者武蔵森との一戦が、刻一刻と迫っていた。