1-15 都大会準決勝①
「着替え終わったー? 入るよー?」
中から数人の返事を確認し、麻衣は「飛葉中」と手書きの貼り紙がされた金属製の扉に手をかけた。
スタジアム内の控え室。赤いユニフォームを纏った彼らが待機している。試合開始まで1時間を切って、緊張も高まってくる頃合いだろう。ふざけあったり、音楽を聴いたり、胃を押さえて何かを唱えたり、過ごし方はさまざまだ。
麻衣は翼に歩み寄り、状況を報告した。
「集合場所戻ってみたけど、やっぱり小林先輩来てないみたい。入り口のスタッフさんに控え室までの案内頼んだから、迷わず来れると思うけど……さすがに心配だし、電話してみよっか」
手元には、1枚だけ渡せずに残っている10番のユニフォーム。なぜか集合時間を過ぎても姿を見せない小林のものである。
「あの野郎、遅刻しといて連絡なしとか、ほんっといい度胸。あとでみてろよ」
チクチクとトゲを感じるトーン。わりと本気で怒っているな、これは。先輩本人の精神的安全のためにも、これ以上部長の機嫌を損ねる前に合流したいところだ。
麻衣は部員名簿を取り出し、翼に借りた携帯電話に小林優也の自宅番号をダイヤルした。
「もしもし。サッカー部マネージャーの高槻と言います。あ、優也先輩のお母さんですか。優也せん……え?――――え!?」
通話中、突然声色を変えた麻衣に、何事かと注目が集まる。電話口に集中している彼女の表情からは、みるみる血の気が失われていく。
「40℃の高熱……!?」
戦慄が走った。
麻衣が口にした信じがたい情報は、その場をどよめきと緊張感で満たすのに充分な効力を発揮した。動揺を隠せない部員たちの声。当然だ。もしも小林が出場できない場合、飛葉中サッカー部には、欠員を補える控えの選手がいないのだから。
『この子、それでも行くってさっきから――あ、ちょっと』
『高槻、俺、這ってでも絶対……!』
混乱していた麻衣も、激しく咳き込む小林の声を聞いて確信した。これは――無理だ。どう考えても出場を許せる体調ではない。かと言ってこの状況をどうすれば良いのか。
震える手から、電話が奪い取られた。
「優也」
『! 翼、すまん、今すぐ……』
「絶対来んな。今すぐ寝ろ。お前が来なきゃいけないのは今日じゃない」
電話越しでも伝わるように、きっぱりと言い切る。
「明日の決勝戦。死んでも治して来い、以上」
向こうで何か言いかけた言葉を無視し、一方的に通話が切られる。険しい顔で手元を睨む翼。その様子を、部員たちは固唾を飲んで見守っている。
明日の決勝戦。翼はそう言ったが、まず今日の試合を勝ち抜かなければ決勝進出できないのだ。よりにもよって、今日の対戦校は優勝候補の武蔵森。とても1人欠員のハンデを負って倒せる相手ではない。
そんなことは全員分かっていた。誰も何も言わないのは、翼が必死に何かを考え続けているからだ。
その時、ノック音と、少しして扉が開く気配がした。
振り向くと玲が入ってきたところだった。室内のただならぬ雰囲気に気付き、不思議そうな顔をしている。
「玲……!」
麻衣は泣きそうな気持ちになりながら、玲に駆け寄り事情を説明した。
話を聞いた彼女は、一瞬驚いた顔をしたが、やがて考え込む素振りで想定外の話を切り出した。
「……飛葉中の選手登録は、12名でしてあるわ」
「!?」
大会規定3条。選手として大会に出場するためには、チームの参加申し込み時にあらかじめ出場予定選手として選手登録票で申請されている必要がある。そのため、今から無関係の人間を助っ人に呼ぶことはできない。前の学校で書類を準備したことがある麻衣も、この規定についてはよく知っていた。
だが、12名。飛葉中の所属部員は10名、臨時のGKを入れてもギリギリ11名のはずだ。残り1名の枠がいるとしたら、それは――――
「まさか……わたしを……?」
「ええ」
玲の肯定に、再び部員たちの間で動揺が生まれた。
「いやいやいや! 聞いたことねっスよ、大会に女子が参加するなんて」
「ルール的にありなんか?」
「けど、麻衣先輩だったら、たしかに小林先輩のポジションやれるかも」
三者三様の意見が飛び交う。中心にいる麻衣は、どう反応していいか分からず立ちすくんでいる。
「みんな落ち着いて。規定上、女子の参加も問題なく認められているわ。前例もある。申請できてるのだから、それが証拠でしょう?」
そもそもなぜ麻衣が選手登録されているのか。部活に参加するため、飛葉中への入学時期を新学期初日ではなく夏休み中に前倒したから、参加資格はギリギリ満たしている。その手続きの直後にはもう……?
玲の思惑は不明だが、実際問題、飛葉中にはこの2択以外の選択肢がなかった。10人で出るか、麻衣を含む11人で出るか。
「麻衣。あと15分以内にメンバー表を提出しなくてはいけないわ」
チームメイトから自分への視線が、次第に期待混じりのものに変わっていくのを麻衣は感じた。だというのに、自分の中では消極的な気持ちが一向に消えない。
自信がない。もう2年以上も試合に出ていないし、60分フル出場でプレーし続けられるかどうかも分からない。そもそも、男子に混じって通用するほどの力が自分にないことは、この数年で痛いほど身に染みている。
ここまで頑張ってきた彼らが、最後にこんな形で悔いを残すなんて耐えられないし、できるなら力になりたい。しかし、一度植え付けられた劣等感は、簡単に拭うことができそうになかった。
「あー、もう! 全員、このくらいでパニクってんじゃねーよ!」
切迫した空気を遮断したのは翼の一声だった。
強張った表情のメンバーたちがハッと我に返る。麻衣も、知らず噛み締めていた唇に血の味が滲んでいることに、そのときようやく気づいた。
「あんまり見くびらないでくれる? 玲。俺は別に10人で戦う覚悟もできてる」
あら。と玲がわざとらしく口に手を添えた。とぼけたふりをして、その実、興味深そうに目を細めて翼の言動を見守っている。
翼は周囲をぐるりと見渡しながら、少々呆れたような物言いで続けた。
「お前らね。そもそも、俺らが充分だったことが今まであった? 環境も経験も。他のチームに比べて足りてるものなんか何ひとつないだろ。今さらなんだよ。人が足りなかろうが、持ち得る条件で勝つ。最初からそういう戦いしてんだ、俺たちは」
顔を見合わせる部員たち。「たしかに」「けど」と遠慮がちな呟き声が聞こえる。
翼は、ここにきていつもの不敵な笑みを見せた。
「そしてそれで勝ってきた。今までとやることは一緒。自分たちの力をもっと信じろ」
普段と変わらない、力強い主張。完全にはほど遠いものの、もはや死に体だった飛葉中の士気が、少しずつ復活してきている。
翼はそれを確認すると、今度は麻衣の正面で言い放った。
「麻衣のことだから、どうせ決勝進出かかってるのに自分のせいで失敗できないとか思ってんだろ? 出たでた。慎重派気取りの逃げ腰思考。そうやって自信がないことから逃げて、俺らが活躍するとこ指咥えて見てりゃいい。
――――けどお前、試合にこだわりがないなんて言って、あれ嘘だろ」
「え……」
言いたい放題言われて返す言葉を無くしていたら、思いがけない方向からの指摘に不意をつかれた。
「休む暇惜しんでボール蹴ってるサッカー馬鹿が、技術だけじゃ足りないって夜通し戦術考えてるヤツが、勝負を前に遠慮? あり得ないね。何にビビってんのか知らないけど、こんな面白そうな試合、駄々こねてでも出たがるのが本来のお前だろ。体裁取り繕ってる場合かよ」
面白そうな、試合。
心の中でその言葉を反芻し、思い知る。今の自分は、勝てない勝負を無意識に避けている……?
「わたしは……」
反論ならばいくらでも思いついた。常識を説けば、麻衣が出場を辞退すると言っても、この場のほとんどの者は納得するだろう。――それなのに。
どんな言葉を並べ立てようとしても、自分自身だけがその言葉の嘘に騙されてくれない。
だって、翼の言う通り。本当は勝負にビビっているだけなのだ。お前では力不足だと、現実を突きつけられたあの時の思いを、また味わいたくないから。
試合に出るだけがサッカーじゃないと、割り切ったふりをして。自分の中の未練をちっとも消化できていないことを、他でもない翼に看破されてしまったから。
「どうせ麻衣がいてもいなくても不利に変わりないんだ。やりたいようにやんなよ。お前が覚悟決めんなら、俺らがお前を走らせてやる」
翼の言葉を受け、麻衣は改めてチームメイトの顔を見渡した。こんな状況で、不安を抱えながら、誰一人逃げ出さずに抗おうとしている。誰も勝利を手放していない。だからこそ無謀な話だろうと、自分に期待が寄せられている。
麻衣にはそんな彼らの気持ちが痛いほど分かった。翼が見せる夢はそれだけ鮮烈で、簡単には諦められない。
実力以上の相手に挑む――それを怖いと感じたのは、初めてひとりで戦ったときだった。
ひとりじゃなければ、負ける気なんてしなかった。強敵に挑む楽しさを、かつての自分は知っていたはずだ。
挑戦するチャンスがそこにある。
ならば今、傍観者になっている場合ではない。
「――やる。わたしにできる限りのことをする」
心を決めた麻衣の回答を、一同は歓迎した。背中をバシバシ叩かれ、痛いと抗議したら、彼ら流の気合いの入れ方だと笑われた。
玲は満足そうに微笑み、メンバー表に麻衣の名を書き足した。提出してくるわね、そう言った彼女を麻衣が一瞬引き止める。
「戻ってきたら、お願いがあるの」
長いツインテールが、本人の手でするりと解かれた。