椎名翼の幼馴染

1-19 約束②

 足が痙攣してもつれそうだとか。息ができなくて心臓が飛び出そうだとか。目の前に対峙している敵が、日本一のGKだとか。そういった雑念は、一切頭から消え失せていた。
 ただ、前へ。受け取ったボールを、あの枠内に叩き込むことだけを考えて、顔を上げる。

 PA侵入直後に麻衣が放った一閃は、一度大きな軌道を描いた後、急速にカーブをかけてゴールに向かった。

 ボールがその足を離れるまで、すべて狙い通りだった。
 間宮のマークを躱わす。ディフェンスの注意を3トップに分散する。翼に、千葉と自分の2つの選択肢を渡す。GKを前に詰めさせ、かつ、最後までシュート以外の手段を匂わせる。
 自分が持ち得る思考を最大限出し切って戦った。

 麻衣の全力が乗ったそのシュートは、クロスバーのやや下に向かって突き進み――ゴールラインを割る寸前、キーパーのセーブによってネットの上へと弾かれた。

 歓喜と、落胆と、双方入り乱れた歓声が会場を覆いつくす。
 事実上の勝敗に決着がついた瞬間だった。

 

***

 

 ほんの数秒残ったわずかな時間消化のため、飛葉側のCKが与えられた。キッカーは柾輝。蹴ったボールが相手DFにクリアされたタイミングで……試合終了を告げる長いホイッスルが鳴り響いた。
 熾烈を極めた準決勝。結果だけ見れば、武蔵森がその揺るぎない強さを最後まで守り抜く形で終了した。

(肝が冷えたな)

 渋沢はようやく胸を撫でおろして、最後の一瞬まで気を抜かせなかった相手チームを称賛した。
 特にラストのセービングは運が良かった。あの瞬間、10番がとり得る行動はシュート以外にもあった。ドリブル突破か、すぐ後ろを走る11番へのバックパスか。
 打ってくると信じて下がったのはほぼ勘のようなものだ。あのゴールへの執念なら、必ずシュートに踏み出すと直感した。こればかりは渋沢のGK経験値が成し得た決断と言えよう。

 武蔵森の選手たちは諸手を挙げて勝利に浮かれ、興奮している。無理もない。今回の大会で、ここまで苦戦を強いられたのは飛葉中が初めてだ。
 一方、赤いユニフォームの選手は、多くがその場に佇み、下を向いて感情をこらえている。勝敗が決するときは、いつも無情だ。

 最後の礼のため、中央に向かおうとする最中、渋沢は異変を感じた。飛葉中の10番、どうも様子がおかしい。立っている足元がおぼつかず、フラフラとバランスを崩している。

「おい、大丈――」

 声をかけようと手を伸ばした瞬間。ぐらり、その身体が傾いた。

「ッおい!」

 突然その場に倒れた10番に慌てて駆け寄る。小さな身体が、芝生の上に突っ伏すような形で倒れている。意識を確認しようと仰向けに状態を抱え起こすと、倒れた衝撃でアジャスターが外れたのだろう、ゴーグルが落ちてその場に転がった。

「麻衣先輩?!」

 気づいた他の選手も騒ぎ始める。
 渋沢は、目の当たりにしたゴーグル無しの素顔と、うっかり触れてしまったおそろしく細い肩に思考が停止した。
 単に小柄なだけではない。この選手は――

「麻衣!!」

 血相を変えて飛んできた声に、渋沢はハッと我に返った。翼が駆け寄ってきて、その場に膝をついて彼女の名前を連呼している。動揺している場合ではない、今は救命が第一だ。

「笠井、救護要請を! それとドリンクと酸素持ってこい!」
「は、はい!」

 渋沢の指示で、最もベンチに近い笠井が走っていった。

 麻衣の意識は朦朧としているが、完全に気を失ってはいなかった。翼の呼びかけに、うっすらとまぶたを開ける。

「……翼……ごめ、最後の……点が……」
「馬鹿、ブッ倒れといて何言ってんの」

 憎まれ口を叩きながらも、応答があったことに少なからず安堵したのだろう。先ほどまで張り詰めていた翼の表情が若干和らいでいる。

 渋沢は、椎名がこんなに切羽詰まるところは初めて見たなと、やや意外そうにそのやり取りを眺めていた。
 だが、この後に見る光景はそれを超える衝撃だった。

 ベンチから駆け足で戻ってきた笠井が、持ってきた酸素スプレーを渋沢に渡そうと手を伸ばす。が、何者かに横から奪われてしまう。
 その人物は、麻衣の頭の横にどかりと腰を下ろすと、無言でスプレーを彼女の口元に押し当てた。
 仏頂面の三上がそこにいた。

「み……三上?」

 渋沢は目を丸くした。予想外の人間の予想外の行動に、翼も呆気にとられている。基本他人に興味の無いこの男が、積極的に救護活動に加わるなんて。

「まさか、気づいてたのか、彼女のこと」

 ハーフタイム中の挙動不審を思い出し、渋沢は合点がいった。何か言いたそうにしていたのはこのことだったのか。付き合いの長い友人に、フェミニストの一面があるとは知らなかったが。

 遅れてやってきた医療スタッフが麻衣の容体を確認する。脈を取ったり、目の粘膜を調べたりして、やがて「大丈夫だ」と診断し周りを安堵させた。

「急な運動で、瞬間的に低血圧を起こしたようです。多少脱水の症状もあるようだが、意識があるなら少し横になって休めば回復するでしょう。――ただ」

 男性スタッフは少々言いづらそうに咳払いをした。

「今後は、そんな風に胸を圧迫した状態で運動させるのは避けた方がよろしい」
「胸を……」

 少年たちの視線が一点に集中し、その直後一斉に逸らされた。
 なだらかな胸元は、年齢のわりに未発達というわけでもなく、どうやら包帯か何かで潰されているらしい。女性だとバレないための工夫なのだろうが、息苦しくなって当然である。

「バカなのかコイツは」

 呆れ果てた三上の苦言に、顔を赤くした翼も無言で肯定した。

「おい麻衣、立てるか」

 柾輝が手を差し伸べるが、やはりまだ意識がはっきりしないらしい。麻衣の顔色は戻り切っておらず、起き上がるのは難しそうだ。
 スタッフに担架を要請しようと柾輝が声を上げる前に、おもむろにしゃがんだ三上が、麻衣の背中と膝の下に腕を入れて軽々と持ち上げた。
 いわゆるお姫様抱っこの状態になり、再び周囲に激震が走る。

「おま……、さっきから何のつもりなんだよ、気色悪い!」
「あ? こっちのが早ェだろうが、それに」

 三上は、ニヤリと底意地の悪い笑みで翼を見下した。

「てめェみたいなチビじゃ無理だろうし?」
「……んなッ……」

 挑発を受け、翼の顔面がピクピクと痙攣する。審判の目を気にした柾輝が羽交い締めにしていなければ、殺意で今にも飛びかかりそうだ。

 そんな翼を置き去りにして、三上は麻衣を抱えて歩き出す。
 腕の中に易々とおさまったそれは想像よりも細くて軽い。
 この小さな身体で60分間ピッチに立ち続け、武蔵森を幾度も窮地に立たせた麻衣に「大したヤツだな」と密かに声がかけられた。