1-2 再会
今日、何度目か分からないインターフォンの呼び出し音に、翼は、やはり何度目か分からない舌打ちを鳴らした。
某国民的アイドル事務所系だと称される顔貌が思い切り不機嫌に歪む。
この数時間で一体何往復させるつもりなのか。そう苦言を呈そうにも、残念ながら今この家には翼以外誰の姿もない。
仕方なく読んでいた雑誌をその場に伏せ、ソファから立ち上がると、冷房の効いた快適なリビングを後にする。
玄関へと続く1階廊下は、普段は少々殺風景なほど片付けられているのだが、今はそのモデルルームのような整然さが、うず高く積まれた段ボールで台無しになっている。先程からひっきりなしに翼を呼び出しているのはこの謎の宅配物だ。
『13時までは家でお留守番していてね』
今朝方、出がけに念押ししていった母親の声が脳内再生される。セリフから察するに、これらの荷物は彼女が手配したものなのだろう。
箱のサイズは大小様々、発送元もバラバラ。品名の記載は、家具(ベッド)、カーテン、食器、衣類、照明器具、化粧品に自転車……? おそらく最近ハマっている通信販売の類だろうが、さすがに数が多いし不審極まりない。
今度は何を企みはじめたのか。あの母はたまに、思いつきでろくでもないことをしでかすのだ。
「絶対、13時になった瞬間家を出てやる」
不定期でやってくる業者に貴重な時間を奪われ、虫のいどころはすこぶる悪い。
玄関脇に置かれたデジタル時計が示す現在時刻は12時50分。この後、近所のフットサル場でいつものメンバーとの約束がある。鬱憤はそこではらすとしよう。
再び鳴り始めるインターフォン。いちいち応答することさえわずらわしいと、壁付けの受話器を素通りし、無言でドアを開ける。
一段と陽射しの強い、真夏の昼下がり。
茹だるような蒸し暑さとともに待ち受けていたのは、これまで通り、荷物を抱えた汗だくの宅配業者――ではなく。
「翼!」
無意識に大人の目線に合わせていた翼は、想定より低い位置からの呼び声に意表をつかれた。
視線を落とし、声の主に向き直ると、その人物はぱっと表情を輝かせる。
「久しぶり、元気だった?」
嬉しそうに弾む声。
彼女は、ごく当たり前の顔をしてそこに立っていた。
身長は小柄で翼と並ぶ程度。華奢な体躯に、ほんのり焼けた肌。腰まで届きそうな長い髪を、耳の高さで二つに結んでいる。
背丈に不釣り合いな大きなスポーツバッグを担ぎ、だぼだぼのTシャツにスニーカーというボーイッシュな服装も、彼女の持つ雰囲気に不思議と似合っている。
ぱっちりと印象的なアーモンド・アイ。澄んだ双眸が、期待のこもった眼差しをこちらに向けている。
「…………」
翼は数秒遅れて口を開いた。
「誰?」
少女は、笑みを称えた表情のまま、ピシリと固まってしまった。
言葉を失って立ち尽くす彼女を観察しながら、翼は、うっすらと生じる妙な既視感の正体を探った。
年齢は同じかやや下か。同世代の女子とはほとんど関係性がないはずだが、彼女の声を聞いた瞬間、なんとなく懐かしさを感じた気がする。
覚えはないが、前の学校のクラスメイトあたりだろうか? いや、何かもっと身近な……。
そうしてふと目に留まったのは、彼女をより快活な印象たらしめているツインテール、その結び目に留まっている見覚えのある飾りゴム。
あれは――――
「〜〜〜っなんでよ!!」
翼が指摘するより先に、少女が奇声をあげた。
「久しぶりに会った第一声、それ!?」
半開き状態だった扉が強引に開け放たれる。
涙目で詰め寄ってくる彼女は、迫力こそないが、キャンキャンと吠え回る子犬のように今にも飛びかかりそうな勢いだ。
「ちょ、バカ、落ち着け!」
「バカはどっちだ、翼のバカあ!!」
この掛け合いをしたときにはもう確信があった。容貌はまったく照らし合わないが、自分にこの距離感で接してくる女は世界にたったひとりしかいない。
「落ち着けって、――麻衣!」
その日、突然再会した幼なじみの名を、翼は約2年半ぶりに呼んだ。
***
「椎名に渡った、止めろ!」
小さな身体で、上級生の容赦ないプレスを交わし、ボールキープしながらDFを引きつけた翼はにやりと笑った。
「高槻がフリーだ!」
敵の反応より一歩早いバックパス。
アイコンタクトすらなしに、まるで申し合わせたようなタイミングで、ボールはスペースに走り込んでいた麻衣の足元にピタリと送られる。
放たれたシュートの軌道上、遮るものは何もない。
ボールがゴールネットを揺らす。この瞬間の高揚を、当時小学生の翼と麻衣はいくども共有してきた。
「今日も冴えてる、うちら!」
嬉しそうに駆け寄ってきて、ハイタッチを求める麻衣。
それをあえて無視し、向かってきた彼女の頭に真っ直ぐ手刀をくらわす翼。
「調子乗りすぎ。さっきのは飛び出しのタイミング危うかったろ」
「う。やっぱ合わせてもらってたか。でも」
ひょいと、麻衣が翼の顔を覗き込む。伸びかけのボブヘアーが、彼女の動きにつられてサラサラと流れる。
「また勝った!」
家が隣同士、母親が親友同士、年齢は1歳違うが、サッカーという共通の世界を持つ者同士。
椎名翼と高槻麻衣はよき友人だった。
とくに麻衣は、翼の影響でサッカーを始めたということもあり、兄のようでライバルのような存在の翼を本当に慕っていた。
「翼が奪ったボールは、全部わたしが入れるんだから!」
そんな子どもじみた誓いは、親の転勤という、小学生にはどうすることもできない事情で果たすことが叶わなかった。
翼が小学校を卒業する年、麻衣は両親に連れられ東京を離れた。泣き虫な彼女は、別れの間際まで泣きはらした顔をしていたのを覚えている。
「向こう行っても、練習サボんない。絶対、上手くなって帰ってくる。だから――だからまた、翼と同じチームでサッカーしたい……!」
***
(……って、最後まで泣きじゃくってたあのちんちくりんが)
最後に会った日の情景を思い起こした翼は、記憶の中の幼い少女――というより、わんぱく少年といった形容の方が正しそうな幼なじみの姿と、目の前の彼女を重ねてこめかみを押さえた。
とりあえずリビングに上がらせた麻衣は、不服そうな顔をしながらも、出されたアイスティーをしっかり堪能している。
パーツの均衡がとれた端正な横顔に、伏せられた長いまつ毛。シャープな輪郭につながる、ほっそりした首すじ。長い髪は光輪を作るほど艶やかで、枝毛ひとつない。
この評価を下すのはいささか……否、かなり不本意だが……客観的に見てかわいい……部類だろう。今でこそしかめっ面だが、出会い頭の笑顔はなかなかに破壊力があった。
たしかに目鼻立ちは同じ作りに見えるものの、無頓着なざんばら髪に擦り傷だらけの身体、毎日泥だらけで転がりまわっていた印象と違いすぎて、とてもあの幼なじみと同一人物とは思えない。
(さすがに別人だろ。こっわ、女って)
唯一、パッと見て誰もが分かる共通点と言えば、髪を括っている白いヘアゴムくらいだ。
シュシュ、というのだろうか? 布がフリル状に折り重なったそれは、最後に会った日、つまり当時小学5年生の麻衣が付けていたものと全く同じ。よく見ると小さくうさぎの刺繍が入っている。中学生になった今では少々幼いセンスにも思えるが、愛らしい顔立ちがそれも魅力のひとつにしてしまっている。
それがなければ、彼女の名前を言い当てるのにもう数秒は時間がかかっただろう。女子の方が成熟が早いとは聞くものの、目の前の少女は、中でも恵まれた変貌を遂げたようだ。
「ひどいよ。あんなに固く再会を誓ったのに。翼の方はしっかり! さっぱり! 忘れてるなんて!」
「お前がいきなり来るからだろ」
機嫌が直らないのか、麻衣は頬を膨らませそっぽを向いている。そういうちょっとしたしぐさや言動には、当時の面影を覚えなくもない。
翼はそんな麻衣の態度を意にも介さず、正面のソファに腰かけると、腕組みをしながら本題を切り出した。
「それで? 何しに来たわけ。おじさんとおばさんも後から来るの?」
数年前まで隣の住人だった高槻家とは昔から家族ぐるみの付き合いだ。単に隣人というだけでなく、親同士が古い友人という間柄。だからこそ、麻衣だけがひとりで訪ねてくるというこの状況に違和感を覚える。
まさか家出? と、麻衣ならやりかねないギリギリのラインまで発想を飛躍させる翼だったが、麻衣は、そういう翼の反応こそ意外だとでもいうように、きょとんと首を傾げた。
「いきなりじゃないし、お父さんもお母さんも来ないけど」
歯切れ悪くそう口にすると、今度はグッと眉根を寄せて怪訝な顔つきになる。
「まさかと思うけど翼、おばさんから何も聞いてない……?」
「話が見えないんだけど」
翼はそう言いつつも、脳内を掠める嫌な予感が色濃くなるのを感じた。
その感覚はなんなら昨日の夜くらいから引きずっている。顔を合わせるたび、含みのあるにやけ面を自分に向けてくる母親の態度に気づいてからずっと。
繰り返すが、あの母はたまに、思いつきで本当にろくでもないことをしでかすのだ。
「わたし、今日からここに住むんだよ」
「ふぅん。また何の気まぐれか知らないけど、1週間? 2週間? まさか夏休み中ずっと? 悪いけど俺、大会前で麻衣に構ってる暇は――」
「いや! いや、だから! そうじゃなくて!」
慌てた様子で静止にかかる麻衣。
続く彼女の言葉を、果たして予想できただろうか。
「転校するの! 2学期から、飛葉中に」
「――――はぁ!?」