1-2 4年半前の日曜日
クラスメイトだった私と諏訪が、お互いを異性として意識するようになったタイミングは正確には覚えていない。ただ、毎日ちょっとずつ、学校で2人の時間が増えていき、目が合うたびに募る期待感を、諏訪も感じていたと思う。
高2のある日、先に一歩踏み込んだのは、諏訪の方だった。
「なあ、次の日曜、空いてっか?」
なんでもない風を装って、照れを隠し切れていないその誘いに、私も内心ドキドキしながら頷いた。
学校の外で会う約束をしたのはその日が初めてだった。一応名目として、私は部活で使う譜面、諏訪はその日発売の新刊、お互いの買い物に付き合うという口実が添えられていたけれど、まごうことなき初デートだ。
前日に爪の先まで磨き上げ、いつもの3倍髪にブラシを通し、うすくメイクを施した自分を全身くまなくチェックする。洋服だって1番のお気に入りを選んだ。私にできる最大限かわいい私になれたはずだ。
そうして玄関で靴箱を開けたとき、急に不安が訪れた。
つい最近、一目惚れして買ったプラットフォームの厚底パンプス。これを履けば、完璧に気合いの入った私ができあがる。
一部の隙もなくおしゃれして、期待して……それで、私が想像するような展開にならなかったらどうしよう。私が一方的に勘違いしていただけで、諏訪が今日のことをなんとも思っていなかったら。
そんな不安が脳裏を掠めた途端、このいかにも浮ついた格好を諏訪に見られるのが、ひどく惨めで、恥ずかしく思えてきた。
(……歩くの遅いって、諏訪に文句言われるかもしれないし……)
誰に対してのプライドなのか、そんな前置きをして、結局私は、履き慣れたスニーカーを履いて出かけた。
待ち合わせの10分前に到着したら、なんとすでに諏訪がいた。自分の方が早かったくせに「おう、早ぇな」なんて笑う顔にキュンとする。いつもの着崩した学ランじゃない、心なしか綺麗めにまとめられた諏訪の私服姿。……やっぱりあの靴、履いてくれば良かったかも。
東三門の駅前は、大学が近いこともあって、若者向けのお店が点在している。まずは当初の目的通り、それぞれ目当ての店に順に立ち寄り、必要なものを購入する。
適当に街をブラつきながら、そろそろメシ食うか、なんて話し始めたとき――
――その瞬間は、驚くほど唐突に、何の前触れなしにやってきた。
ズドン、と腹の底まで響く重い衝撃音の後、街中を揺るがす大きな地震。
「――――……ッ!?」
経験したことのない揺れの中、とても立っていることができなくて、その場に崩れ落ちる。止まらない地響き、人々の悲鳴。路駐の自転車がドミノ倒しになり、ドラッグストア入り口の陳列棚が盛大にぶちまけられて、新製品のシャンプーだの制汗剤だのが路上に散乱した。
時間にして十数秒、私は地面にへたり込んでいたと思う。
「おい高槻、大丈夫か!?」
諏訪が私を庇うように覆い被さっていた。
揺れは依然として断続的に続いているものの、最初の衝撃に比べれば幾分小さくなっている。ようやく顔を上げることができ、周囲を見渡した私は、目にした光景に思わず息を呑んだ。
人々の多くがその場にうずくまり、揃って同じ空を見上げている。ここから見て山側の方角。暗く濁った雲が立ち込め、唐突に存在している――――“穴”。
見えないスクリーンに投影されたCG映像かと、そう考えたほどにフィクションじみた光景だった。深淵へと続く巨大な穴が、三門の上空にぽっかりと口を開けている。
「なに、あれ……」
私が呟くと同時、先ほどまでCMをループしていた商業施設の大型ディスプレイが、緊急速報を告げるニュースに切り替わった。
『ただいま、◯◯県で原因不明の地震が立て続いて発生しております。震源は◯◯県三門市……あ! たった今、現地の映像が繋がった模様です!』
映し出されたのは、近くの地方整備局からのライブ映像だった。手前に川、奥に山。南から北に向けて、三門市の東側を観測する画角だ。画面右寄り、あの黒い大きな穴が、しっかりと映像に映し出されている。
異常現象が発生しているすぐ下あたりで、砂煙が舞い上がった。遠目の映像では分かりづらいけれど、建物が崩落しているみたいだ。「なんだ、何が起きている!」……現場職員と思われる男性の怒号が放送に乗って、それがどこか演出じみた、映画のワンシーンのように錯覚した。
周りの人々が、大慌てで携帯を取り出し操作し始めた。地元の人間ならば、先ほどの映像ですぐに分かる。あれはここから1kmも離れていない場所だ。
私もすぐに携帯を開いたけれど、圏外の表示が一向に消えない。たぶん、基地局が死んでいる。映像を流していたディスプレイも、電力供給が途絶えたのだろう、やがてブツッと小さな音を立てて消えた。
「すわ……諏訪、どうし、どうしよう……!」
「高槻、おい、落ち着け」
「私の家……あの場所のすぐ下なの……!」
力の入らなくなった手から、携帯が滑り落ちていった。不安と混乱が涙腺を刺激して、そのまま溢れ出てくる。諏訪が支えてくれていなければ、私はその場に卒倒していただろう。
「落ち着け」
まるで小さい子に語りかけるように、諏訪が私の両肩を掴んで、真っ直ぐ自分に向き直らせた。泣きじゃくるしかできない私と違って、諏訪の目は若干動揺の色を浮かべながらも、冷静に焦点を結んでいる。自分だって、連絡の取れない家族に万一がないか、気にならないはずがないのに。
「ひとまず、避難誘導待つぞ。闇雲に動いてっ方が危ねーからな。……あー、そのうち自衛隊かなんかが来て、避難所に案内されんだろ。そこにおめーの家族もちゃんといる。な?」
私を安心させようと、どうにかこうにか言葉を選んでいる様子だった。諏訪の言葉を信じ、小さく頷けば、ぽすんと優しく頭に手が乗せられた。
けれど次の瞬間、その手が今度は力強く私の身を抱き寄せた。再び強い地鳴りが轟き、獣のような、本能的に恐ろしさを感じる咆哮が、あたり一帯にこだました。
その時に感じた絶望感は今でも計り知れない。
建物を次々と薙ぎ倒し、見たこともない異形の怪物が、私たちの目の前に現れたのだ。
あまりに現実離れした状況に、人々はなす術なくただ呆然とそれを見上げていた。2階建の建物をゆうに上回る巨体には、ぐるぐると忙しなく動き回る球体が付いている。あれは……目玉? なのだろうか?
その不気味な目玉が、真っ直ぐにこちらを捉えた。
「高槻!」
怯んで身動きが取れない私を我に返らせたのは、またしても諏訪の声だった。
「ボサっとしてんじゃねえ、逃げんぞ!」
右手を固く握りしめられ、走り出す諏訪に引き摺られるようにその場から離脱する。
怪物は身体が重いのだろうか、そこまで俊敏な動きではないものの、確実に私たちの方向へと向かって来ている。ひとつ歩みを進めるたび、無惨に破壊されていく街並み。あの瓦礫の下敷きになって押しつぶされた人も大勢いただろう。
この状況からいったいどうやって逃げおおせたのか、正直記憶は曖昧だ。私はただ、諏訪に手を引かれるまま必死で走った。諏訪によると、私たちが逃げまどう最中、何者かが怪物に切り掛かってその動きを止めたらしい。後にそれがボーダーという組織の戦闘員だったことが、防衛省の記者会見で判明した。
ボロボロになりながら避難所に辿り着いて、数日後に家族と合流するまで、本当に生きた心地がしなかった。
未曾有の被災地となった東三門は、私の仲の良かった友人を含め、たった数日でたくさんの犠牲者を生み出した。建物の倒壊に巻き込まれた人、怪物に襲われた人……一歩間違えば、私も犠牲者名簿に名を連ねることになっていた。あれ以来、私は底が平らな靴しか履けなくなった。
家族が全員無事だったのは不幸中の幸いだったけれど、住む家と、父親の職場を失った私たちが、まともに生活していると言える状況になるまで約3ヶ月かかった。その頃には仮設住宅に案内されて、国と市からの補償を少しずつ受けられるようになっていた。
諏訪とは、お互い目の前のことがいっぱいいっぱいで、めっきり連絡が減ってしまった。そもそもライフラインが機能していないのだ。以前は毎日のようにやり取りしていたメッセージも、携帯を使えない間途絶えていた。それでも、避難所に何度か様子を見に来てくれたり、ようやく学校に行けるようになった日、まるで夏休み明けかのように「よう、久しぶり」と変わらず接してくれたことで、ひどく安心したのを覚えている。
高3、諏訪がボーダーに入隊した。もちろん驚いたけれど、あの現場に居合わせたことで、何かしら思うところがあったのかもしれない。私を守ってくれた諏訪が、これからは市民を守るヒーローになるのだと、妙に感慨深かった。
毎日が慌ただしく過ぎていった。あの日以来、曖昧になってしまった私と諏訪の関係がようやく次に進んだのは、大学1年の秋。諏訪が、ボーダーの正隊員になったという報告とともに私に告げた。
「好きだ」
思いがけず真っ直ぐな告白だった。
本当はあの日に聞けるはずだった言葉。2年ごしに届いた諏訪の想い。
私の想いは、2年前とは比べものにならないほど大きくなっていて。
「諏訪、顔真っ赤」
「……るせー、返事は」
返事の代わりに飛び込んだ逞しい胸に、私はしっかりと抱き止められた。
空白の時間を取り戻すように、恋人としてやりたかったことをたくさんした。私は生活のためにバイトをしていたし、諏訪は任務や訓練で忙しかったけれど、可能な限りの時間を一緒に過ごした。
逢瀬はもっぱら諏訪のアパートだった。付き合って1ヶ月もする頃には、合鍵も作った。毎日が幸せで、そんな日々の終わりが近いことなんて、私はまるで疑いもしなかった。
「おめーはよ」
ある日の夜、狭めのベッドでいつものように身を寄せ合いながら、諏訪がなんとなしに呟いた。
「全身で俺のこと好き、って感じだよなあ」
手の甲が優しく私の頰を撫で、耳を通って、髪を掬い上げる。微睡の中、そんな風に触れられるのが心地よくて、私は大好きな手をたぐり寄せてキスをした。
「好きだよ、諏訪」
諏訪は少し、戸惑うような反応だった気がする。
切なげな言葉の意味も、理由も、今となっては分からない。
諏訪が私に触れたのは、その夜が最後だったから。