1-20 エピローグ
「礼!」
「あざッした!!」
センターラインを跨いで頭を下げる両チームに、観客席から惜しみない拍手が送られた。
一悶着あって終了時間が伸びたが、これで武蔵森vs飛葉中、王者vsダークホースの一戦は終決した。2-1。どちらが勝ってもおかしくない試合だったと、後に武蔵森キャプテンの渋沢は語る。
麻衣は施設内の控え室で横たわりながら、ずうんと空気を淀ませていた。めまいは一旦回復したのだが、今度は圧倒的な自己嫌悪に苛まれている。
「あんな……決定的なゴール外して……しかも失神するって……」
隣からぷくく、と笑いを堪える気配を感じる。チームが敗北して全国出場を逃したというのに、監督はずっとこんな調子だ。
「ごめんなさい、笑いごとじゃないのだけれど。けど、麻衣が倒れたときのあの子たちの反応ったら……ふふっ」
「人の傷口えぐらないで」
不本意にも倒れた後、いろんな人に迷惑をかけてしまったらしい。よく覚えていないが、何故かここまで自分を運んだのは三上とのことだ。一生の不覚。あとできちんと謝罪したいし、あわよくば記憶から抹消してほしい。
「麻衣先輩ー!」
バタバタと物音がして、真っ先に駆け寄ってきたのは1年生トリオだ。心配をかけてしまって申し訳ない。上半身を起こし、大丈夫だと笑顔を向ける。
「ビビったぜまったく。もう大丈夫なのか?」
「六助。うん、おかげさまで」
「あんまそうは見えねえけどな」
松原の指摘通り、空元気ではあるのだが、体調よりもメンタルに受けたダメージが大きかった。
最初から分かり切っていたこととはいえ、試合での自分の通用しなさを実感し、現実が重くのしかかっている。絶対にこのチームを勝たせると意気込みながら、自分は役割を果たせなかった。
「小林先輩に、いい報告しそびれちゃったなあ」
冗談めかして言ったつもりが、口から漏れたのは自分でも驚くほどしゅんとした声色だった。微妙な空気を作ってしまい、麻衣は慌てて顔を上げる。
「あ、いや! 今のはその、個人的な反省というか、自分に対しての不甲斐なさ、というか。もちろん、本当に悔しいのはみんなの方だって、分かってるんだ、けど」
言いながら、全員の顔ぶれが目に入った瞬間、麻衣は一度抑え込んだ自責の念が再び膨れ上がるのを感じた。
試合中の数々の未練が、渦を巻いて襲ってくる。
だめだ。今この気持ちを暴走させたら、みんなを余計困らせる。そんな理性とは裏腹に、制御できなくなった感情が込み上がってくる。
「……ごめん……」
取り繕った表情はあまりにも脆く、決壊した思いが、雫となってみるみる溢れ出した。
「みんなの期待に、応えられなかった……!」
決勝進出をかけた試合の10番を。延長戦に持ち込めるかもしれないラストチャンスを。このチームは自分に託してくれた。それが本当に嬉しかった。
だからこそ全身全霊を込めたのだ。
心臓が千切れるほど走っても、この身体は求めるパフォーマンスに届かなかった。もっと自分に力があれば。男子にも当たり負けせず、最後まで走り切れる力が。
努力では越えられない自身の限界。ないものねだりと理解っていても、未練は結局そこに固執する。
(わたしが女じゃなかったら、もっと、)
「麻衣がもし人並みに走れるヤツだったら」
突然割り込んだ、まるで頭の中を見透かされたような発言に、ドクリと心臓が跳ね上がった。
チームメイトが部屋に戻ってきても、麻衣は意識的に翼と目を合わせるのを避けていた。あんなに発破をかけられて、結局は勝負に負けた自分に、彼は今度こそ落胆したのではないか。誰のどんな嘲笑よりも、翼の失望が1番怖い。
その先続く言葉にはそれなりの覚悟をしたつもりだった。
「――自慢のボールコントロールも、盤面を見通した判断力も、せいぜい人並み程度にしかならなかっただろうね」
分厚く溜まった涙の層が、まばたきとともに流れ落ちる。滲んだ視界が一時的にクリアになって、その目に映ったのは、いつもと変わらない自信家な笑み。
「足りないものを補うために、今のお前が得たものを、ちっとは誇りなよ」
思いがけない評価に意表をつかれ、息苦しさが飛んだかわりに、今度は混乱が訪れた。
結果を出せなかった自分を誇る? 人一倍勝ちに厳しい翼がそれを言うのだろうか。
翼をはじめ、チームメイトの誰ひとり、暗い顔をした者はもういなかった。たった今、全国大会への切符を逃したというのに。悲観に暮れるでも、後悔に苛まれるでもなく、ただ、みんな少しだけ寂しそうな表情を浮かべている。
「一回負けたくらいでこの世の終わりみたいな顔してたら、この先もたないぜ」
「――――!」
ああ、そうか。
コイツは勝てるから強いんじゃない。
挑戦し続けるから強いんだった。
そのことを思い出し、麻衣はようやく腑に落ちた。
誰よりも負けず嫌いであると同時に、負けてもタダでは起き上がらない。幼き自分が憧れたのは、椎名翼のそういう強さだ。
才能の塊のような彼も、手にした勝利以上に、たくさんの敗北を積み重ねている。あと一歩勝利に届かなかった時、悔しさに涙する場面を見たことすらある。それでもコイツは挑戦を辞めない。
たとえ何度失敗し、ボロボロに負けたとしても、強者に挑んだ経験値を糧に前を向く。この先に辿り着こうとしているもっと大きな目標に向かって。
翼にとって大きな挑戦だったこの大会は。
けれど、まだ彼のゴールではないのだ。
「行きたかったな、全国。このチームで」
五助が漏らした本音に、数名が感極まって涙ぐんだ。
立ち上げからたったの1年で都大会準決勝まで登り詰めたのだ。彼らの間には、麻衣が知り得ないさまざまな物語があったのだろう。それはきっとかけがえのないもので、本当はまだ終わらせたくなかったに違いない。
部活という、引退時期が定められたチームで彼らが同じ想いで走り続けるためには、1試合でも多く勝ち続けるしかなかった。
「サンキューな、麻衣。最後の試合、やり切らせてくれて」
「せやな。麻衣が出てへんかったら、俺ら不完全燃焼で終わるとこやった」
それでも、3年生たちの表情は心なしか晴れやかだ。
チームに加わってまだほんの数日の自分に、はたしてそんな言葉をかけてもらえるほどの仕事ができたのだろうか。彼らが走ってきたこの1年は、納得する形で終われたのだろうか。
本当のところは分からない。けれど、五助や直樹のそんな言葉が、少なからず麻衣にとっての救いになった。
六助が堪えきれずに泣き出した。釣られて1年生たちも嗚咽を漏らす。保田は鼻をすすり、松原さえも目を押さえて顔を背けている。
彼らの夏が終わろうとしている。それぞれの想いを噛み締める時間が、少しの間続いた。
「感傷に浸ってるところ悪いんだけど」
腰に手を当てた翼が、呆れた調子で口を開いた。
「お前ら、もう1戦あること忘れてるだろ。明日の3位決定戦」
「…………あ。」
すすり泣きの音が止み、誰からともなく間抜けな声が漏れた。
全国大会出場は優勝した1校のみに与えられる権利だが、都大会としてはベスト4までは順位が付けられる。すっかり意識から抜け落ちていたが、明日は決勝戦だけでなく、3位決定戦も行われるのだ。
飛葉中にはまだ、3位入賞の芽が残されている。
「つか、完全に忘れてたけど、小林のヤツ、明日は出れんのか?」
「いやぁ、さすがに40℃を1日で回復は難しいんじゃ」
「つーことは……」
10人の視線がいっせいに自分に向けられて、油断していた麻衣は身体をこわばらせた。
「へ」
想定外の流れに頭が付いてこず、目を白黒させる。
だっておかしいではないか。あのときたしか――
「翼、わたしが10番なのは、今日が最初で最後って」
『今日、このチームの10番はお前なんだぜ。
――たぶん、これが最初で最後』
あの言葉で、麻衣は失いかけていた集中力を取り戻したのだ。翼のチームで、10番として仕事ができるラストチャンスだと。自分の力で、なんとしても明日のチームに繋げなければならない……と。
疑念の眼差しを向けると、翼はしれっと答えた。
「さあ、なんのこと?」
「!!」
ハメられた。
それはもう、疑う余地のない確信犯的笑みに、自分がいいように操られていたのだと悟る。
コイツ……今日勝とうと負けようと、最後にはならないことを把握した上で、わざとあんな言い方を……!
「出たくないんなら、別に構わないけど」
そんな風に言いながら、こちらが断るなんて微塵も疑っていない態度に、思わず反発したくなる。
けれど、残念ながら。麻衣はここで自分が「出ない」とは絶対に言えないことを自覚していた。
気持ちがもはや、もう一度あの場所に向いている。
今日の試合でやり残した数々のこと。あの時、あのアプローチをしたらどうなっていたか。あの技、今日は出せるタイミングを作れなかった。このメンバーなら、実はあのフォーメーションが機能するのではないか。
次こそは、もっと――――
試合に残した未練は、結局試合でしか晴らせない。そのことを嫌というほど思い出したから。
「悪いな、麻衣。倒れたばっかだってのに」
「次はそんな無茶させねえから」
「もう一度、俺らに力を貸してくれ」
かけられたその言葉に、再び大粒の雫が目尻から溢れ出し、彼らを慌てさせてしまった。
このユニフォームはあくまで借りもので、自分で掴み取った居場所ではないけれど。それでも今この番号を背負うと決めたのは自分の意思だ。
今だけは、まだあの夢の続きにいられる。
自分がそこに立つことを、彼が、彼らが、受け入れてくれたから。
自分の実力で何ができるだろうと、後ろ向きな考えはいったん捨てる。
できることを全力で。
必要な覚悟はただそれだけだ。
「――――うん!」
正真正銘、最後の一戦。
後悔がないように、次もまた全力で挑もうと、涙を拭った麻衣は笑顔で宣言したのだった。