1-5 諏訪と寺島
彼女ができた。
当時大学1年だった俺は、人生初の彼女に能天気に浮かれていた。
かなり前からそいつに惚れていたし、惚れられている自覚もあったのに、クソ近界民どものせいで何年も待たせるハメになった彼女。正隊員に昇格するための訓練でロクに構えやしなかった期間も、物好きなあいつは変わらず俺を好きでい続けてくれた。
その高槻を、ようやく俺のもんだと言えるようになった。
ボーダーでの活動は変わらず多忙で、色恋と両立すんのはそれなりに面倒臭えだろうと覚悟していたが、それも杞憂だった。むしろ、あいつとの仲が親密になればなるほど、俺の調子は絶好調だ。その頃のランク戦は同期たちに勝ちまくっていた。
異変に気づいたのはある日の防衛任務。その日は午前シフトで、任務中に出現した近界民を、俺の弾丸が一撃で粉砕した。
「相変わらず諏訪の威力すっげえな」
合同で任務にあたっていた同期にはそう感心されただけだったが、もろにその手応えを感じた自分だけは、ただならぬ事態に当惑していた。
明らかにトリオンの出力が跳ね上がっている。
今日だけじゃない、ここ最近感じていた違和感を確かめるために、俺は足早に帰投して測定器を手に取った。
――結果、つい2ヶ月前、正隊員登録時に計測した公式記録の、軽く2倍の数値がそこに表示されていた。
すぐに上に報告しなかったのは、うっすら心当たりがあったからだ。俺の戦績が良い日は、決まって高槻が家に来た翌日。そして問題に気づいたその日、俺は任務に向かうほんの直前まで、あいつをこの腕に抱いていた。
脳裏に浮かんだ馬鹿げた疑念を払拭するために、手当たり次第の検証をした。あいつと会った日、会わない日。最後に会ってからどのくらい経ったか、何をしたか……。
そうやって、あらゆる可能性を排除して最後に残った真実ってやつは、俺が必死になって否定したかった通りのもんだった。
“高槻には、触れた相手のトリオン能力を倍増させる力がある”
どう足掻いても認めざるを得ないこの真実を、俺は誰にも、あいつ自身にも悟らせたくなかった。
そのために、ようやく手にしたもんを――俺のことを好きだと言うあいつを――手離すことになっても。
***
ドサリと身体が沈む感覚の後、目に入ったのは見慣れた天井。作戦室のマットの上。敵に両攻撃をブチ込んだ直後、俺の戦闘体は急激に増えたトリオン量に耐え切れず崩壊し、そのまま緊急脱出した。
現場を最後まで見届けられなかったのは心残りだが、まあたぶん問題はねえだろ。近界民の頭が吹っ飛ぶところは見たし、迅の予知通りことが運んだはずだ。
「すわさん」
隣の部屋から遠慮がちに声がした。おサノが、珍しく神妙な顔をしてこちらを覗き込んでいる。
「おー、お疲れ。日佐人と民間人は保護されたか?」
「ん。いま医療班と回収班が現着したとこ。生存反応は消えてないから、すぐ救助される」
「そーか」
「……本部長が」
言いづらそうにひと呼吸置いて、おサノは続けた。
「すわさん、後で呼び出すまで隊室で待機、だって」
「……そーか」
いつもなら軽口のひとつでも飛び出すのだが、どうもそういう雰囲気じゃない。
部下を不安にさせちまっている。てめえの不始末のツケを払わされるのはまだしも、こいつらを巻き込んだことにはひどく罪悪感を覚えた。
「おめーは俺に言いてえこととかねえの?」
「んー」
おサノは少し考える素振りを見せたが、結局何も聞かず、報告書をまとめると言ってデスクに戻っていった。
俺は起き上がる気にならねえでマットに横たわったまま。一律のリズムを刻むタイピング音だけがあたりに響く。
(除隊処分……まあありえるだろうな……)
天井を意味もなく見つめながら、この後自分に下されるであろう処罰を予想する。
サイドエフェクトの中でもおそらく特異な性能を持つ高槻の存在が、ボーダーにとってどれだけ影響がでかいかは想像できる。俺が知っている他のSEは、どんなに強くとも使用者本人だけに作用するものだ。迅の《未来視》や菊地原の《強化聴覚》のように、使い方によっちゃ他人も恩恵を受けられる能力もあるが……不特定多数のトリオンにバフかけられる能力なんざ、さすがに規格外だろう。利用価値が無限に思いつく。さらに、その能力が敵側に奪われると厄介極まりないことが、今回の件で証明されちまった。
下手すりゃ戦況が傾くほどの情報を意図的に隠した俺は、隊務規定の何項目かには違反したことになるだろう。そうでなくとも、組織からの信用は失ったも同然だ。
それからしばらくの間、俺はひどくもどかしい時間を過ごすことになった。
待機を言い渡された以上、連絡があるまで勝手な行動は制限されている。その連絡がいつ来るのかも分からねえ。おサノが出て行った今、外の情報に一切触れることができず、ただただストレスが募っていく。
結局現場はあの後どうなったのか? 日佐人は無事救出されたのか? イレギュラーゲートの原因は? あいつは――高槻は今、どこでどうしている?
作戦室内をうろつきながら、試しにその辺の本を手にとってみるが、当然のように内容は頭に入ってこなかった。フロアの禁煙ルールがいつも以上に忌々しい。
命令とはいえさすがに痺れを切らし始めたとき、見計らったようにドアが開いた。
「お疲れ。その様子じゃ、命令無視して飛び出す寸前だったんじゃない?」
雷蔵が、いつも通りの石仏みてえな表情で、ソファで不貞腐れている俺を見下ろした。
「アァ? ンでおめーが来んだよ」
「機嫌わっる。こっちはたぶん諏訪が知りたい情報わざわざ持ってきてやったんだけど」
言われた瞬間、ガバッと上体を起こしてヤツに詰め寄る。
「日佐人は無事か? 高槻は、ケガの具合は?」
「落ち着きなよ、説明するから」
焦れる俺の心境なんざ素知らぬ顔で、雷蔵はいつもと変わらぬマイペースだ。勝手にソファの一角に陣取り、手慰みに資料をめくる、乾いた紙擦れの音。
「まず、例の大型近界民に捕獲された民間人2名と笹森は全員無事。笹森は意識もしっかりしてるよ。民間人の方は、経過によっては部分的に記憶封印措置が使われるかもね」
無事という言葉に、ほっと胸を撫でおろす。飲み込まれた日佐人はトリオン体だから、万一のことはないと思っていたが、全く心配でなかったと言えばそれは嘘だ。あいつには無駄に怖い思いをさせちまった。
「高槻さんだっけ。彼女の方も医療チームが手厚く治療にあたってる。なんせ酷いケガだったしね、右肩、骨折してたらしいし」
「は!?」
嘘だろ、と思った。たしかに見るからにひでえ有様ではあったが、あいつは自力で動いてたんだぞ。あれだけ振り回されたりぶん投げられたりして、痛えの一言も漏らさなかったってのか。
「痛みで気絶しててもおかしくなかったって。なかなか根性あるよね」
「あいつ……!」
あいつのそういうところが、昔から危ういと思っている。人に気を使わせること、迷惑をかけることを異様に嫌い、自己犠牲には躊躇がない。そんな性質を誰よりも知っていたくせに、気遣えなかった自分にも腹が立つ。
「治療の傍ら、簡単な検診も行われてる。……もちろん、彼女のサイドエフェクトについて」
ぐ、と自制を効かせた俺の反応を無視し、テーブルの上に資料が置かれた。印刷されたコピー紙の束。厚みにして7〜8ミリ、100枚弱ってところだろう。
1ページ目からわけの分からねえ数字の羅列が載っていたが、雷蔵はするすると読み進めて、必要な箇所を指で示した。
「ここ見てくれる? 今回の関係者のトリオン量から、能力値を推定したものなんだけど」
そこには現場にいた俺らボーダー隊員、保護された民間人、そして高槻の名がリストされ、時間経過で変化するトリオン能力値が記録されていた。とくに隊員はそれぞれのトリガーから詳細にログを追えるらしく、ある時点で急激にピークを迎え、ゆるやかに減少していく様子がグラフで表されている。
俺の場合、緊急脱出寸前のピーク時が『21』。通常時の3.5倍――にわかには信じられない、驚異的数値だ。
14、9、13、16……と、いずれも類を見ない高い数値が続く中、頂点を示す数値はなんと『33』。これは高槻本人が、救急に運び込まれた直後に測定されたステータスだった。
「比較的振り幅の少ない堤や嵐山にしても、全員何かしらの影響は出てる。当然、彼女自身にもね。それぞれ変化率はまちまちだし、法則性も断言できるまでには至ってない。ただまあ、それなりに信憑性の高い仮説はある」
そう言うと、雷蔵はなぜか話を中断し、じっと俺の顔を見てきた。もの言いたげな視線に、変に居心地が悪くなる。
「んだよ。もったいぶりやがって」
「嵐山がさ、気まずそーに報告書持って来たんだよね」
「あ?」
突然出てきた嵐山の名前に、思考がずらされる。あいつ、たしかゲート発生時にたまたま大学に残っていて、一緒にいた柿崎と先に現着したんだったな。非番だってのに報告書まで書かされてやがんのか。あの地味に面倒な……
(……報告書、気まずそうに……?)
ガタッと、音を立てて立ち上がった俺を嘲るように、雷蔵は静かに口端を吊り上げた。
「共感性羞恥やば」
「て……ンめえーー! 今すぐその報告書を燃やせ! データ抹消しろ! てめーの記憶は俺が殴り飛ばす!」
「もう上層部までひと通り目を通してるよ」
終わった……!
取り返しのつかない失態に気づき、頭を抱えて項垂れる。あのときの俺は、日佐人が食われるわ、目の前の女がてめー勝手なこと抜かすわで、正直テンパっていた。
目撃者が嵐山だけだと思って油断していたのもある。あいつは他人の噂話を面白おかしく吹聴したりはしない、けれど、仕事となれば誰よりもキッチリしたやつだ。それはもう、見たこと全てを報告しただろう。
悶絶する俺をさげすむ視線が鬱陶しい。
その報告書がどこまでの権限で誰の目に触れるかは知らねえが、最も見せてはならないメンツが揃って遠征中なことだけは、現時点で唯一の救いだった。
「とにかく。その報告書と時系列データを照らし合わせれば、高槻さんとの“接触度合い”と“接触時間”は、能力値の上昇に少なからず相関があることが分かる。直接触れたり、長く近くにいる人ほど上昇率が高い。本人を除けば、経口摂取した諏訪が最も数値に跳ね返ってるわけだ」
「おい言い方」
思わず突っ込んだが、こいつの口からキスがどうのとか言われるよりは多少マシなことに気づいて口をつぐんだ。
その仮説は俺が過去に自分で検証した事実と概ね重なる。正確な数値で測れたわけではないが、ある程度の法則を知っていたからこそ、俺はあのとき一番手っ取り早い方法(雷蔵が言うところの経口摂取)を実行したのだ。
「さらに言えば、彼女の能力の発動条件だけど」
「発動条件?」
「そ。さすがに常時こんなブッ壊れスキルを発動されてたら、今までこの街で発見されないわけないでしょ」
それもそうだと納得する。見境なく能力が垂れ流し状態なら、大学周辺は今頃トリオン強者だらけだ。
「これは今のところ、心拍数と連動してるって見方が有力説だね。動悸が早くなればなるほど、例の能力が強く誘引されるんじゃないかって言われてる」
現時点までのモニタリング結果では、ストレス値やアドレナリン濃度、そして心拍数とトリオン生成量に一定の関係が見られたと雷蔵は補足した。鎮静剤で痛みが引き、精神的にも落ち着きを取り戻した頃に、トリオンも減少したのだという。
「これらのデータを踏まえて、高槻さんのSEは『心拍に連動してトリオン生成シグナルを過剰分泌する特殊体質』ってのが医療チームが出した仮説らしいよ」
「トリオン……なんだって?」
「生成シグナル。オレも医療領域は専門じゃないから、ざっくりした理解だけど。トリオン器官も臓器である以上、生命維持に必要な指令を受けてトリオンを生成してる。で、その指令を伝えるなんらかのシグナル分子があると考えられているんだけど、彼女は心拍が上昇するとそれを過剰に分泌してしまう体質らしい。トリオン器官は目に見える細胞とは別物だし、飽和したシグナルが体外に放出されても機能して、副次的に他者への付与効果を得られるってことなんだろうね」
「だろうねって言われてもなァ」
小難しい単語が増えてきやがった。SEの存在が明るみになってまだほんの2〜3時間だっつうのに、もうここまで分析が進んでいるなんて、研究者ってやつの執念が伺い知れる。
「要はあいつの心拍数が上がると、あいつも、あいつに触れたやつもトリオン量が増える、って話でいいんだよな」
「まあだいたいそれでいいんじゃない。とにかく、医療チームの研究室はお祭り騒ぎだよ。長年開発が望まれているトリオン生成の作動薬について、絶好の“研究材料”が見つかったわけだからね」
雷蔵の発言に、俺は敏感に反応しながらすんでのところを理性で踏みとどまった。
こいつのこのスタンスはどうせパフォーマンスだ。俺を感情的にして、何かを引き出そうとしている。妙に気前良く情報開示すると思ったが、どうやら本題はここかららしい。
「なんで黙ってたのさ、彼女のこと」
案の定、ヤツは白々しく俺を尋問する側に回った。核心をつくような言葉で煽っておいて、よくも聞けたもんだ。
「何のことだよ。あいつのSEについてなんざ、俺も今日初めて知ったわ」
「上層部の前でもそう言い訳するつもり? さすがに通らないと思うけど」
「あいつはただ元カノってだけだ。2年も前のな。別れてから会ってもねーし、ンな小難しい話、俺に知りようがねえだろ」
まともに取り合う気がねえのを態度で示せば、ヤツのとりすました顔にも少し苛立ちが浮かぶ。正直、ほとんど八つ当たりだ。俺は今、どうしてもこの組織に従順でいる気になれない。
しばらく睨み合った後、雷蔵はため息ひとつ落としてこう切り出した。
「内分泌系の異常がもたらす疾患ってどういうものだと思う?」
「は?」
何を問われているのか、俺は咄嗟に分からなかった。
「つまりさ。人間の臓器は生命維持のために活動をしているけど、どこか一箇所が過剰に働いてバランスを崩すと、全体の恒常性が壊れるわけ」
単語の意味は分かっても、こいつの思惑が読めない。俺の思考が追いついていないのを察してか、雷蔵は次の言葉を強調した。
「トリオン器官だって例外とは限らない」
「なっ……」
ここでようやく、この話が高槻のSEに関連するものだという文脈に辿り着いた。
「しかもこの数値、単に異常ってレベルを超えてる。元々の機能の数倍の活動を強制されるなんて普通ありえない。一種のドーピングや、オーバードーズに近い状態って言えば分かりやすい?」
「んだよそれ、あいつの身体がやべえってことか!?」
言葉の節々に物騒なニュアンスを感じ取り、思わず声を荒げる。テーブルに放置された資料、折れ線が示す高低差が急に不穏なものに見えてくる。
「分からないよ。そもそもSEなんて未知の領域なんだから。だから調べる必要があるんでしょ。うちのSE組が定期的に検診通ってるのは知ってる? あいつらの身体も、人並み外れた感覚を作用させるたびに、たぶん人並み外れた負荷がかかってる。そこにどんな副作用があるかまだ何も分かってない」
「……ッ」
「この先もし彼女や、彼女のまわりの人間になんらかの障害が出た場合、トリオン器官なんて見えない原因に普通の医者はまず思い当たらないだろうね。そういう事態に備えたり、対処できる設備があるのは今のところ三門だけだよ」
俺は自分の想像力に対する慢心を呪った。
あいつは自分が持って生まれたものについて何も知らない。知らないままでいい。そう思って何も知らせなかった。知らないことで生命が脅かされる危険性なんて、1度として考えが及ばなかった。
自分への憤りを腹に抱えながら、それでもなお、俺の行き場のない正義感は眼前の男に反論する。
「ハッ、つまりおめーはあいつにこう言いてえわけだ。この先もまともに生きてえなら、おとなしく俺らに囲われとけ、と」
こいつの言わんとすることはたしかに正しいだろうが、だからあいつが管理されて当たり前というような言い様には腹が立つ。組織に依存せざるを得ない状況を盾に、丸め込もうという魂胆すら透けて見える。
「そんで、体良く囲い込んで何さすつもりだよ。言った通り研究用モルモットか? 戦闘員の補給タンクか? あんな都合のいい能力、利用しねー手はねえわな」
「利用……なるほど、協力要請だとは思わないんだ?」
「んなもん、言い方変えただけで一緒だろーが。最初はありがたがるがもしんねーが、そのうちあらゆる方針や戦略が、あいつがいること前提で立てられるようになる。武器や物資の一部みてーに、利用するのが当たり前になる。――俺だって」
一度脳裏から剥がした自己嫌悪が、ふたたび頭をもたげはじめ、握り拳に爪が食い込んだ。
「さっきの戦闘、あいつが目の前にいて、使わねー選択肢はなかった」
俺はこうなることを恐れて、あいつの能力を一生隠し通すつもりでいた。
それなのに、たとえ遅かれ早かれバレる状況だったとしても、あの力を事実認定させたのは俺だ。自分の部下に街の防衛、それらを天秤にかけて、結局あいつを庇いきれなかった。
俺らは所詮軍人だ。使命の前に、個人の不利益を躊躇えねえ。
「あいつの力は軍事利用に都合が良すぎる。けどあいつ自身は、どこにでもいる普通の女なんだぞ。たまたま都合のいい力を持っているだけで、知らねー野郎に身体触られたり、危険な場所に放り込まれたり、そんなことに付き合わされる謂れは何もねえ。ボーダーがあいつを手放せなくなったとき、あいつの権利はどうなる? 誰が配慮なんざする? 街の安全だとか、世界平和だとか、そういう大義名分を掲げて、あいつを縛りつけようとするんじゃねえのかよ!?」
そして、そういう言葉にあいつがめっぽう弱いことを俺は知っていた。お前の力が必要だと、うまいこと誑かされて、あいつは簡単に自分を差し出すんだろう。
あいつにはごく当たり前に生きていて欲しかった。
何にも巻き込まれねえで、自分以外の何も背負わない人生を。
――見つかっちまった以上、それももう難しい。俺の決意は、たいした時間稼ぎにもならなかったわけだ。
「諏訪って」
それまで俺の言い分を黙って聞いていた雷蔵が、表情を少し、仲良いやつが気づくか気づかないかのほんの微妙な差でしかめながら口を開いた。
「大雑把に見えて冷静に考えてるようで、やっぱりツメが甘いよね」
「はあ? 喧嘩売ってんのか」
訝しむ俺から一切目を逸らさず、ヤツは無遠慮に言葉を継ぐ。
「はっきり言うけど。あのSEを発現した高槻さんが、普通の人生歩めるなんて期待は最初から望めないよ」
「――ッテメエ、なんの権限があって――」
いやに力強く言い切りやがったその結論に、俺は当然同意を拒んだ。自分でも驚くほどに感情が冷え渡り、適切な反応を見失って言葉が詰まる。今すぐこいつの胸ぐらを掴んで発言を撤回させたいと、そんな衝動が行動に移る寸前だった。
「そもそも、存在を隠せると思ってることがまず大きな間違い。諏訪はトリオンってものの特殊性を知らなすぎてる。目に見えなくても、あれだけ存在感のあるエネルギー反応、どのみち探知は時間の問題だったと思うよ。ボーダーにも――近界民にもね」
伸ばしかけた拳がピタリと止まった。新たに提示された情報を脳が処理し始める。
近界民。いつも対峙している敵の通称だが、本来は俺らと同じような、文明を築いて国を栄えさせている種族らしい。その存在を、概念としては知っていても、俺はまだ視認したことがない。
「今日開いたイレギュラーゲートは1つじゃない」
「何?」
「これはまだ一部の人間しか知らされていないことだけど……迅のSEで、近々敵の大規模な侵攻が予知されてる。詳しい時期や規模は不確定、ただ発生はほぼ確定らしい。今回の件、どうやって誘導装置を掻い潜っているのかは調査中だけど、敵の目的は偵察だって線が濃厚なんだ。
そんな事件に彼女が巻き込まれた。どういう意味か分かるよね?」
畳み掛けるように明らかになっていく事実に、ぞわりと全身に焦燥が駆け巡る。
「高槻さんの存在が、敵に気づかれた可能性がある」
「……!」
事態は、俺の想定なんかより遥かに最悪だった。
「諏訪が言った通り、彼女の軍事的価値は絶大だよ。狙いに来るのは何もボーダーだけじゃない。彼女がもし敵の捕虜になったら? 人道的に扱われるかは甚だ疑問だね。たとえば、心拍数を無理矢理上げるために拷問にかけられるとか、薬漬けにされるとか」
「な……ざっけんなよ!」
「相手は侵略を仕掛けてきてるんだ。端から道理なんて通じない」
グロテスクな仮定を淡々と語るこいつの神経が信じられねえ。聞いているだけで腹ん中が逆流するような感覚に襲われる。想像したかねえ……けれど、充分に真実味のある話だというのも納得できてしまう。
「ゲート発生時、彼女の位置特定と回収を最優先にできていれば、無駄に情報を渡さずに済んだ。――諏訪が、ボーダーに彼女の存在を隠さず、事前に保護要請していれば避けられたかもしれない、明確な失態だよ」
俺の行いはその言葉で一刀両断され、俺自身も俺を殺したくなった。あいつを得体の知れない危険に晒したのは、過去の俺の浅はかな独断に違いなかった。
反論の余地を失い、沈黙が訪れた。俺はもはやまともな思考回路を保てていない。さまざまな後悔が浮かんでは、先行きの不安をいちいち煽ってきやがる。
2年ぶりに触れた高槻は身体中ボロボロだった。あんな目に合わせた敵に殺気が沸いた。あいつが傷つけられんのだけは、やっぱりどうしたって許せねえ。
許せねえってなんだ。どの立場から言ってんだ。2年も経って未だに彼氏面か?
あいつも俺も、自分のために、相手を忘れようとしてきた。時折すれ違うあいつの顔から未練の気配が消えたとき、俺の気持ちも一度は過去のものになったはずだったのに。
クソ。
俺、まだ全然あいつに惚れてんじゃねえか……。
巡り巡って唐突にそんな感情を探り当ててしまい、いよいよ救いのねえ自分に呆れた。
「……まあ、今のはあくまで憶測だから。幸い彼女は奪われてないわけだし、最悪ってほどでもないでしょ」
黙り込む俺を見かねた雷蔵が、打って変わってフォローに転じた。
「オレが言いたいのはさ。諏訪は、彼女を危険から遠ざけることで守ろうとしてたみたいだけど、それじゃダメってこと。彼女を守りたいなら、彼女の側にいて、襲ってくる敵に対抗しないと」
「守る?……俺がか?」
「そうなんじゃないの? 少なくともさっきの話を聞いて、オレは諏訪がそうしたいんだろうと思ったけど」
あいつを守りたい。
小っ恥ずかしくて絶対に口に出来ねえようなセリフが、妙にしっくりと胸に落ちた。
たしかに、俺はずっとあいつを守りたかった。4年半前の侵攻のときから、いやたぶん、あいつの献身的すぎてどうしようもねえ性格が放っておけなくなったときから。
そうか、と今更ながら腑に落ちる。
あいつが好きなら、手離すんじゃなく、守るべきだったのだ。あいつに迫る脅威にビビってたのは俺だ。てめーで跳ね除ける自信がなくて、守るという選択肢を端から除外した。逃がすつもりで、自分の責任の及ばないところにあいつを遠ざけていた。全部、俺の甘さと弱さが原因だ。
「警戒区域外なら安全なんて幻想もなくなったでしょ。仮に彼女が三門を出て行けば、諏訪はもう何かあっても助けに行けない。それどころか、何かあったことすら知らないままだろうね。
利用しようと狙うやつがいて、身を守る術のない彼女が勝手に幸せになるなんてことはないよ。誰かが守らない限り」
「…………ハアァー……」
長い長いため息が出た。こんな当たり前の話を、俺は指摘されるまで考えてこなかったのだ。そのツケが一気に押し寄せてきた気分だ。おかげで俺は、自らの過ちを精算するハメになった。
誰かがあいつを守る必要がある。SEの性質を考えれば、おそらくボーダーも全力で守ろうとはするだろう。
けど俺は、その誰かが誰であっても本当の意味で任せられはしねえ。もしもあいつに何かあろうもんなら、俺は一生そいつを恨み続けることになる。
なら、てめえで覚悟決めるしかねえ。
「一個だけ聞いていいか」
俺はソファに座り直し、床を見つめながら問いかけた。返事を待たずに勝手に続ける。
「雷蔵、おめー今日喋ったこと、どこまで俺が聞いていい情報だ?」
見てねえが、おそらくヤツはしれっとした顔でこう言った。
「何が? オレは防衛任務上重要な相談を、信頼できる同僚に持ちかけただけだよ」
――――叶わねえなあ。
「あー。……悪ィ、手間かけた」
「まったくだよ。こういうのは風間の役回りだろ? 慣れないことさせないでよね」
風間か。あいつにこの件で説教される自分を想像してみる。どうにも議論が平行線で、俺が素直に話を聞くとは思えねえ。来たのが雷蔵だったのは、俺にとっちゃ幸運だった。
考えを切り替えろ。少なくとも、あいつを無条件でこの組織に一任するのはダメだ。
俺は交渉に値する特殊能力も持ってなければ、組織内での発言力もたいしたことねえ。それでも、2年前よりまともな判断ができるくれえは成長しただろ。
まずは上層部と話をつける。雷蔵の話を聞く限り、分は悪くねえはずだ。
一度覚悟が決まっちまえば、俺はあいつのためならなんでもしてやれる気がした。
(たく、世界一面倒臭え女だな、オイ)
好きな女の世話を焼きてえ俺が惚れるだけあるわ、と思わず自嘲した。