1-7 2人の距離(第1部完)
「失礼します」
諏訪がそう言って会議室の扉を閉めた。
私を医務室に送り届けるため、車椅子を押して歩き出す。行きと同じルートを逆に進んでいく。無人の廊下。
波乱の面談を終え、解放された私たちは、2人になってしばらく無言だった。
エレベーターに乗り入れ、フロアの数字と閉ボタンを押したところで、諏訪が突然、盛大なため息とともにその場にしゃがみ込んだ。びっくりして様子を伺うと、下からじろりと睨み上げられる。
「あの人らに面と向かって啖呵切るとか、正気かてめー。寿命縮むかと思ったぜ」
う、と言葉を詰まらせる。諏訪の言い分も仕方がない。私だって自分にドン引きしている。
「その……ごめん、つい、反射的に……」
「別に謝ることでもねえけどよ。たく、相変わらず無鉄砲というか、妙な行動力発揮しやがって」
恥ずかしさと申し訳なさがじわじわ迫り上がってきて、思わず目を逸らした。冷静さを欠いた私の一連のやらかしで、諏訪に尻拭いをさせた自覚はある。まともな判断をするには平常心を失い過ぎてた。
寿命が縮むなんて言いながら、あれだけ堂々と振る舞える諏訪が凄すぎるだけとも思うけど。
いろいろなことがありすぎて、正直まだ気持ちが落ち着かない。こうして諏訪と2人っきりでいることも現実感がないし、これからどうなるんだろうという不安も残っている。
「ま、おめーが俺を庇おうとしたことは分かってるよ。ありがとな。もうあんな無茶されるのはごめんだけどな」
「はい……」
下の階に付き、ドアが開いた。「段差揺れんぞ」とひと言添えて、諏訪が私をエレベーターから降ろす。
長い廊下はどこまでも同じような作りが続いていて、さながら迷路みたいだ。時間帯もあるのだろうけど、さっきから全然人とすれ違わない。従業員数に対し施設が広すぎるのかもしれない。
誰かに聞かれる心配もなさそうなので、会話を続ける。
「ねえ諏訪。私、最終的にどうなったのか、よく分かってなくて。諏訪は辞めなくて済んだんだよね?」
「はあ? 分かんねえで頷いたのかよ」
「だって、諏訪が止めないから、大丈夫かなって」
顔は見えないけれど、すごく呆れられている気がする。し、仕方ないじゃん……私としては、最低条件をクリアすることに必死で、他のことまで気にする余裕がなかったんだから。
「まあ、おめーがフラフラしてっと危ねえのは事実だから、素直に匿われておくべきだな」
「諏訪が私の監督役? みたいなのやらされる話は?」
「気にすんな。今も後輩の面倒はそれなりに見てっから、おめーひとり増えたとこで大して変わりゃしねーよ」
本当かな。その言葉の信憑性は疑わしい気がする。処分の代わりにと打診したくらいだから、そこそこ面倒ごとを引き受けたんじゃないだろうか。
「城戸さん、最後はやけにあっさり引いてくれたけど……」
「あー」
私がひそかに引っかかっていた点を指摘すると、諏訪には何か思い当たることがあるらしかった。言おうか迷っている様子なので、黙ってじっと言葉を待つ。根負けしたのか、諏訪は素直に口を割った。
「ありゃ、最初からこうなることが決まってたからだな」
「え?」
言っている意味がよく分からなくて、疑問符が飛び出る。背後から諏訪の解説が続く。
「つまり、あの人らは元々、面談が終わった後にこう持ちかけるつもりだったんだろ。“諏訪はこのままだと除隊処分になるが、おめーがボーダーに入隊するんなら、監督役として残すことができる” ってな」
「なっ……」
思いもよらない話に、ぶわっと鳥肌が立った。もし本当にそう言われていたら、私の答えは一択だ。選択の余地なんてあるわけがない。
「おど、脅されてた、ってこと……?」
「おー。じゃなきゃ、わざわざおめーが見てる目の前で俺の処分の話を切り出したことに説明がつかねえ。俺をクビにするだとか記憶消すだとか、他隊員への説明コストかかるだけで、ボーダーにとっちゃメリットねえし」
「えええ」
あくまで決定権が私にあるように接しておいて、その実、上手く誘導されていたことに恐怖を覚える。これが大人のやり方というやつなのだろうか。
科学的常識無視の謎エネルギーや、記憶を封印する技術まで持っているというし、私、本当にやばい組織に足を踏み入れてしまったのかも……?
あと、何でもないことのように言ってるけど、そういう組織の実体を知っていて上手く立ち振る舞うこの男も、もはややばい側の人間のような気がしてきた。
「じゃあ、私のはったりなんて、本当に無意味……」
「そうでもねえよ。結果が同じでも、向こうにお膳立てされたわけじゃなく、こっちから言い出したことって体面守れた方が主導権を握られずに済む。そういう意味じゃナイスアシストだったんじゃねえか」
「私なんてギャーギャー騒いだだけで、最終的に上手く収めてくれたの、諏訪だし」
「どーだかな。俺もなんつーか、この辺で手打ちにしてもらったっつーか……唐沢のおっさんの温情だな、最後は」
なんだか、一気に疲れが押し寄せた気がする。興奮しっぱなしだった脳も、さすがに稼働が限界に達したようで、少しだけ頭がふらついた。
難しいことは明日以降にして、今日はもう休みたい。ちょうどそんな風に感じたタイミングで医務室にたどり着いた。
「あ? んだよ、誰もいねえな」
先ほど私を診てくれていた医者の姿がない。隣接する部屋にも人の気配がなく、出払ってしまっているみたいだ。
デスクライトが付いていたり、私物らしき物が置かれたままなので、すぐ戻ってきそうではあるのだけれど。両手も使えないし、どうしよう……と思っていたら、諏訪が診察台の上に腰を下ろした。どうやら、人が戻るまで待っていてくれるらしい。
秒針が刻む音だけが響く、静かな個室。意識的に考えないようにしていたけど、やっぱり、2人きりというこの状況にそわそわしないのは無理そうだ。
「あのよ」
どうやって間をもたせようか考えていたら、諏訪の方が先に口を開いた。
粗暴に脚を広げ、眉間にシワを寄せた強面の彼は、知らない人が見たら関わっちゃいけない人種だと踵を返すだろう。けど私からすれば、何か言いたいことがあるとき、伝え方を考えているヤツの仕草だ。口がモゴつくのを隠すように手で覆われている。
「俺ら戦ってる時の身体、戦闘体っつって、トリオンでできた偽モンっつーか、要は、生身じゃねえんだわ」
そのようなことを、私は嵐山くんからも説明されていた。戦闘体に換装していれば、傷を受けても死なないし、ピンチになってもすぐに基地に帰還できるのだそうだ。あの時も諏訪は換装していたから、消えてしまったのは本部に戻っただけだ、絶対に無事だと諭された。
「だから、ノーカンだ、ノーカン!」
「へ?」
「そういうことだから、おめーも気にすんなよ。彼氏の手前、気まじいだろうが、浮気でもねえからな。つーか忘れろ」
主語を明言しないので、文脈を理解するのに手間取ったけれど、ふいに思い出した。
キス、したんだっけ。
ちらりと諏訪の顔色を伺う。ノーカンだと言う彼はいかにも自分は気にしていない素振りをする。表情にも変わりはない。その代わり、一切こちらを見ようとしない。
こいつ、こんなに嘘、下手だったっけ……?
感触を思い出そうとする不埒な思考をなんとか追いやって、私はもう1点、聞き捨てならない言葉に言及した。
「彼氏?」
何のことだ、と聞いたつもりだったのだけれど、諏訪は、何故お前が知っているのか、というように受け取ったらしい。
「いるだろ? 一緒に大学歩いてた……名前は知らねーけど、同じ学年の」
果たしてそれは過去何番目の彼氏のことだろうか。
複雑な心境に苛まれる。今日、諏訪と言葉を交わした瞬間から、私はもう諏訪のことで頭がいっぱいで、歴代彼氏どころか昨日私を振ったばかりの男の顔すら忘れていたというのに。――それはそれで我ながらちょっと薄情なのだけれど。
諏訪の投げかけに、私は否定も肯定も返さなかった。誤魔化すようにこちらから質問する。
「諏訪の方こそ彼女は? 職場で元カノと会ってたら嫌がられない?」
「心配しなくとも、んなもんいねーよ」
そうなんだ……。
私は、努めて何でもないように取り繕った。全然人のこと言えない。三文芝居もいいところである。
――――本当は。
本当は、他にもっと聞きたいことがあった。
会議室で諏訪の話を聞いてから、もしかしたら……なんて淡く抱いている、私の願望を叶えてくれるかもしれない、決定的な質問。
あのとき
私を振ったのは、私を守るため?
本当は、嫌になったわけじゃないの?
本当は、まだ、私のこと好きだった……?
喉まで出かかっているその言葉を、必死に胸のうちに押しとどめる。
言ってしまったらどうなるんだろう。そうであってほしいって。彼氏、今はいないよって。
けれど無理だ。私は自分の厄介な運命を知ってしまった。
ただでさえこれから迷惑をかけようというのに、それ以上の負担を押し付けられるほど図太くない。すべてを知って、それでも諏訪が私の好意を受け入れてくれるなんて、そう言えるだけの自信も到底持ち合わせていない。
私は臆病だから。
私は、私がまた諏訪を好きになってもいいんだって、確信が持てるまで、この気持ちを認めるわけにいかないんだ。
今はこの距離でも充分、胸がいっぱいだった。
左手をそっと後ろ手に隠す。文字盤に表示された数値が彼の目に止まらないように。
私の心臓が、今でもこんなに簡単に動かされてしまうこと、今はまだ知られてしまわないように。