椎名翼の幼馴染

1-9 武蔵森学園①

 東京都中学校総合体育大会サッカー大会、通称都大会。今日、飛葉中サッカー部はトーナメント3回戦を勝ち抜いたらしい。
 らしいというのは、先ほど電話で聞いた限りの情報である。勝利が確定した瞬間、麻衣は現場にいなかった。

 新品の上履きで飛葉中校舎の廊下を進む。まだ日が高い時間帯だが、夏休み中とあって、校内はガランとしている。遠くに聞こえるのはバスケ部の掛け声と、吹奏楽部のパート練だろうか。
 2年生の教室を横切るとき、新学期からここに通うんだなとうっすら意識しながら、麻衣は、廊下の突き当たり、視聴覚室の引き戸を開けた。

「おかえり。首尾はどう?」

 翼が涼しい顔で迎え入れた。
 その態度に、麻衣はほんの少し面白くない、という反応をする。仮にも部の一員として、もっと勝利に対する喜びを分かち合ったりしたかったのに。この男はさも勝って当然というスタンスでそこにいるのだ。
 教室にはほかの部員も揃っていて、試合でくたびれて突っ伏していたり、申し訳程度に風を送っている扇風機前に陣取ったりしている。
 正面には、大きなスクリーンとホワイトボード。

「観てきたよ、虻川vs足立忍。2-0で虻川、だから明日の対戦相手は虻川中だね」

 ふう、とため息を吐きながら肩の荷を降ろす。黒いナイロン性で武骨なショルダーバッグから取り出したのは、小型ビデオカメラとケーブル。
 麻衣は慣れた手つきでカメラとプロジェクターを接続した。

 翼から依頼された任務とは、大会で次に当たるチームの試合会場に行き、内容を記録して共有することだった。
 都大会は約1週間、都内複数会場で行われる。1日1試合ずつ進行していき、午前中には試合が終わる。そのため午後は身体を休めつつ、こうして次回戦の作戦会議を行っている。対戦相手の情報があればよりシミュレーションしやすい。
 麻衣としては、本音は自チームの試合を現地で応援したかった。他校の試合を見ながら、飛葉中の試合展開が気になって、内心ずっとハラハラしっぱなしだったのだ。
 とはいえ、優勝のためと言われれば仕方がない。ビデオと三脚を担ぎ、これまでの3日間、ひとり別会場に赴いたのだった。

「虻川のフォーメーションは4-3-3。前線に上手い選手を固めてて、ボールを持ったらどこからでも縦に仕掛けてくるのが特徴だった。前半5分のこのシーン、ミドルサードでボールを奪ってから、まず右WGが……」

 要点をメモしたノートを見ながら、映像をダイジェストで流していく。
 ひとりでビデオを回しながらノートを取るのも結構苦労したのだ。左手で三脚のパンハンドルを握り、首からバインダーを下げてブツブツと全集中で観戦していた姿は会場でもかなり浮いていたと思うが、とりあえず周りの目を気にしている余裕もなかった。
 要所要所で解説のために止めたり、適当に早送りしながら1試合の映像を流し終えると、教室の後方からふふっと控えめな笑い声が聞こえた。

「本当に丁寧なスカウティングレポートね。敏腕マネージャーさん?」

 それまで黙って事の成り行きを見守っていた玲が、からかうような口調で麻衣を褒めはやした。

 飛葉中サッカー部監督、西園寺玲は翼のはとこだ。引退した元Lリーグチームのエースストライカーで、ヨーロッパにコーチ留学した後、帰国して1年ほど前から椎名家に居候している。麻衣にとっても同居人である。
 現役当時からちょくちょく椎名家に顔を見せていて、そのたびに翼と2人でせがんで練習に付き合わせたものだ。美人で気さくで聡明で、魅力的な大人の女性――ではあるのだが、一方で何を企んでいるか分からない侮れなさをも醸し出しており、こういう時、麻衣はつい身構えてしまうのだった。

「それで、部長さんはここからどんな作戦を立てるのかしら」
「玲もたまには監督らしく自分が仕切ったら?」
「あら。私はこのチームに関してはあくまで無報酬のボランティア。アドバイスはするけど、なんでも頼ってはダメよ?」

 彼女の飄々とした態度に、翼ですら軽くあしらわれてしまう。それでもなんだかんだ絶大な信頼を寄せられているのだから、不思議な存在である。

「ったく……。じゃあまず、WGにボールが渡ったときの奪取ポイントだけど」

 翌日の準々決勝、少しでも勝率を上げるために、少年たちの議論は夕刻近くまで続いた。

***

 朝から容赦ない陽射しが降り注ぐ中、行われた準々決勝。飛葉中が追い討ちの3点目をねじ込んだところで、試合終了のホイッスルが鳴った。
 3-0。快勝である。ベンチへと戻ってくる選手たちの顔もみな誇らしげだ。

「お疲れみんな! 準決勝進出おめでとう!」

 真っ先に出迎えた麻衣に、各々拳を上げて応える。今は澄ました顔をしている翼も、得点の瞬間には大きくガッツポーズする姿が見られたので良しとする。

 敵情視察に行っていた1〜3回戦と違い、今日の麻衣は現地でしっかりとチームメイトの応援に励んでいた。というのも、次に観たいマッチアップはこの後、同会場で行われるためだ。
 大会概要資料を確認する。武蔵森中vs風林中。11時キックオフとなっているので、もう10分足らずで入れ替わり選手たちがやってくるだろう。急いでベンチを空けなければ。

「準決勝、まぁ武蔵森だよな」
「うう……ついにあの武蔵森と……胃に穴が開きそう」

「みんな武蔵森って方が勝つと思ってるのね」

 観客席への移動途中、部員たちの会話を耳にした麻衣が呟いた。とくに誰かに質問したわけでは無かったのだが、たまたますぐ隣を歩いていた柾輝が応答する。

「ああ、麻衣は東京から離れてたから知んねーのか。武蔵森っつったら、優勝候補ド本命の強豪だぜ」
「優勝候補」
「そいつらのこれまでの試合のスコア見たか?」

 言われて、今朝プリントアウトしてきた大会ホームページのスコア表をひっぱり出す。そこには昨日までの全試合スコアが記録されている。

「武蔵森、2回戦………8-0!?」

 一際目立つその数字に驚愕した。初戦のシード校対決も5-1。圧倒的な点差だ。出場校の中でもレベルが頭ひとつ抜けているのが見て取れる。
 あまりの衝撃にスコア表をガン見していたら、突然、視界からそれが奪われた。

「どいつもこいつも、たかが都大会止まりのチームに必要以上に怖気付きやがって」

 麻衣から奪い取った紙をヒラヒラと弄びながら、呆れ調子で翼が言った。

「相手が誰だろーと、1点も入れさせねえよ。勝つのは俺たちさ」

 曇りのない自信満々の言葉は、根拠などなくとも力強い説得力がある。翼の言葉に呼応し、2・3年のメンバーが「当たり前だ」といって笑ってみせた。不安そうな表情をしていた1年生たちも、少し落ち着きを取り戻したようだ。
 こういうとき、翼のキャプテンシーはおそろしく頼りになる。

 麻衣・翼・玲の3人を会場に残し、他のメンバーは解散となった。準決勝の前には1日インターバルがあるので、いつも試合後に行っていたミーティングは明日また集まってすることになっている。
 観客席の、なるべく俯瞰で全体を観られるポイントを選び、3人は荷物を下ろした。麻衣は早速、三脚とビデオカメラをセッティングする。

 ピッチに選手たちが並び始める。青々とした芝生に映える白黒ストライプのユニフォームが、強豪校らしい威圧感を放っている。
 間もなく試合が始まろうとしている。