2-4 研究室
あれから警戒していた追撃は来なかった。
墜としきるつもりがないのに仕掛けてきた敵の思惑は不明だけれど、基地が大破するような事態は一旦回避したのではないかと、冬島さんが言っていた。
2人分の背に寄りかかり、椅子の座面に構わず足を乗せ、膝を抱えこむ。どくどくとうるさい心臓も、そうやって身体の内側に閉じ込めているうちに、多少は落ち着きを取り戻していく。
今は外壁の修復に私たちのトリオンが当てがわれている。2人とも黙々と作業をするだけで、相変わらず私には詳しい戦況は分からない。先ほどまでと比べて本部との連絡が密になっているようで、雑談の類いは一切無くなってしまった。
ふいに、背中に触れている面積の半分が離れていった。雷蔵くんが、立ち上がってデスクの上の細々したものをまとめている。
「ちょっと急用。しばらく戻れないから、あとよろしく」
それだけ言い残すと、私たちの返事も待たずそそくさと退室していった。
その背中を目で追う冬島さんの横顔に、苛立ちというか、焦りに似たものを感じたのはたぶん気のせいじゃない。
宣言どおり、彼はそのまま戻ってこなかった。言っても席を立ってまだ20分足らずなのだけれど、状況を知らされず放置されている身としては、多少なりとも心細い。どうにも胸のあたりがざわざわする。
「雷蔵くん、何かあったんでしょうか」
思わず漏らしてしまった私に対し、それまで沈黙を守っていた冬島さんは分かりやすく肩を跳ねさせた。
「さ、さァな〜室長にでも呼び出しくらって捕まってんじゃねーか?」
「…………」
下手な取り繕いで目を泳がせる冬島さんをじっと見上げる。
この前おサノちゃんと話したとき、ちょうど彼の話題が出たことを思い出す。普段はドッシリと構えた勝負師なのに、女子相手だと途端に弱腰になるらしく「冬島さんに麻雀で負けたことないんだー」と得意気に語っていた。今の彼がその状態なのかもしれない。
隊長である彼があえて伏せている情報。それを無理に聞き出そうとするのは良くないって、分かっている。けれど、いろいろなことが起きすぎて、理性よりも不安な気持ちが勝ってしまった。
無言で訴え続ける私に、冬島さんは表情筋をいろいろ動かしながら抵抗していたけれど、とうとう根負けしてくれたらしい。ひとつ大きく息を吐いて、躊躇いがちに話し始めた。
「実は、風間のヤツが緊急脱出したんだ」
「……! 風間くんが?」
信じられない、と即座に思えるほど、私は風間くんの強さを知っているわけじゃない。戦闘素人の目には、B級以上の隊員の動きは全員人並み外れて見える。
ただ、彼が他の隊員たちから一目置かれる存在なのは知っていた。同期の攻撃手志望の子たちがよく話題にしているし、たとえば日佐人くんなんかも、風間くんへの尊敬が言動から滲み出ている。
攻撃手ランク2位、個人総合ランク3位という実績も、彼がボーダー内最強クラスの戦闘員であることの証明だろう。その風間くんが、墜とされた。たしかに、他の隊員たちの不安を煽る材料になり得るかもしれない。
「風間をやった敵が、まだ倒されずに残っている。ちょっと厄介なトリガー使いでな。そいつと大量のトリオン兵、敵さんはどうしてもこちらの戦力を分散させたいらしい。対応に追われて本部もてんやわんやってワケだ」
「トリガー使い……じゃあまさか」
「ああ。兵器じゃない、正真正銘の近界民だな」
人型近界民……!
その存在がとうとう自分の世界に現れたのだと、拍車をかけた緊張が、鳩尾あたりをきゅうと締め付けた。
ボーダーと関わるようになるまで、三門を襲う事象はどこか自然災害に近いものと思っていた。地震や火山噴火と同じ、人の預かり知れない摂理的なものだと。
本当はそうじゃない。この街で今も繰り広げられているのは<戦争>なのだ。ゲートも、トリオン兵も、意図を持った者が操作し、攻撃をしかけてきている。訓練の一環であるランク戦は対人戦が想定されている。
これだけ大掛かりな侵攻なのだから、敵側の戦闘員との交戦があり得ることも当然警戒されていた。けれど、やっぱり私はその話を自分ごととして捉えられていなかったみたいだ。
今だって、話を聞いてもどうにも実感が伴わない。――風間くん以上に強い、人の形をした敵と、殺し合いをしなければいけないなんて。
「歌川くんや菊地原くんは」
「風間が緊急脱出してすぐ撤退した。遠征組は慣れてるからな、さすがに引き際は間違えねえぜ」
得られた回答にひとまず安堵する。戦闘員とはいえ、あの子たちは16歳。こういう考えは今更虫が良いんだろうけれど、やっぱり危ない目にあってほしくはない。
「よかった。じゃあ、誰かがケガしたとかじゃないんですね」
ホッと息をついて微笑みかけたその時、ぎくりと後ろめたく歪んだ表情を、私は見逃すことができなかった。
「冬島さん……?」
「あ、いや。してねえ! 誰もケガなんてしてねえって」
ワンテンポ遅れてそう主張しながら、彼は目を逸らした。
そのあからさまな挙動によって、私の疑心をほぼ確信させてしまったことに、本人も気づいているのだろう。動揺が顔面に張り付いている。
私は私で、その様子にただならぬ事態を察知し、全身が警戒モードへと切り替わった。胸のざわざわは足先にまで広まって、イヤな予感が身体中を這いまわる。
「誰が……誰に何があったんですか!? 冬島さん!」
もはや遠慮なんてする余裕もなくなって、冬島さんの腕を掴んで激しく揺すぶった。誰が、なんて言っているけれど、頭に浮かんでいるのはたった1人だ。私に隠す必要があるなんて、アイツに関わること以外考えられない。
迫る私の圧から逃れるように背を反らし、しどろもどろになりながら、必死にかぶりを振る冬島さん。
「ほんとに、誰もケガなんかしてねえんだって! 風間は隊室から今も指揮してるし、諏訪のヤツだって寺島に任せときゃ……!」
あ、と言って彼は自分の口を塞いだ。
釈明を聞き届ける前に、気づけば私は、勢いよく部屋を飛び出していた。
***
開発室に直結しているトリガー研究室。来る前に通りかかったときはガランとしていたそこに人の集まる気配を感じ、入り口を開け放つ。
案の定中にいた雷蔵くんは、私と目が合った一瞬で顔をしかめ、盛大に舌打ちをした。
室内には数名のエンジニアさんのほか、諏訪隊の面々が揃っていた。青ざめた表情の日佐人くん。その日佐人くんの隣に座り、肩を支える堤くん。少し離れたところにいたおサノちゃんが、私に気付くとパッと立ち上がり、駆け寄って胸に飛び込んできた。
「麻衣さん! すわさんが、すわさんが……!」
抱き止めたおサノちゃんの身体が震えている。いつもクールな彼女からは想像できないほどの取り乱し方。
まさか。
最悪の想像が過り、私の頭も真っ白になって――
「高槻!!」
「……っ、トリガー、起動」
雷蔵くんの呼び声に弾かれるようにトリガーを握りしめた。こんなところでSEを暴走させるわけにはいかない、咄嗟にそう判断できるくらいの理性は残っていたみたいだ。
換装すると同時、暴れていた感情の波がひとつひとつ、静かに凪いでいく。
ギリギリ正気を手放さずにすんだ。
むせび泣くおサノちゃんの肩を抱きしめながら、改めて状況把握のために研究室内を見渡す。
雷蔵くんを含む数名のエンジニアが、中央にある特殊な台を取り囲んでいる。
台の上には見慣れないキューブ状の物体。それに、積み上げられた何かの残骸。
台は何かしらの装置が組み込まれているらしくて、横腹からコードが伸びている。その先に、基盤がぎっしり詰まった巨大なコンピュータ。モニタ上には細かな文字列が絶えずスクロールしている。
私が乗り込んだことで一瞬手を止めさせてしまったけれど、エンジニアさんたちの意識はすでに自分の作業に戻っていた。雷蔵くんも、もはやこちらを一瞥もせず、チームの人とデータを確認し合っている。
諏訪の姿はどこにもない。
入り口付近で立ち尽くしている私のもとに、堤くんが近寄ってきて、おサノちゃんの頭にぽんと触れた。
「堤くん、いったい何が」
比較的冷静に見える彼も、口を開く前に少し表情をこわばらせ、言い淀む様子を見せた。
「……諏訪さんが新型に捕まって、風間隊が取り戻したんですが……」
視線がそっと部屋の中央に向かったので、つられて私もそちらを見る。
「姿をあのように変えられてしまって、開発チームが今、戻す方法を解析中です」
「変えられ……? あの、四角いあれのこと?」
「ええ」
ほの淡く発光するキューブと、堤くんの顔を見くらべる。当然、彼が笑えない冗談を言っているようには思えない。
おサノちゃんから手を離し、台へと近づく。
手前にいたエンジニアさんが遠慮して脇に避けてくれた。
「…………」
それは両手に乗るほどの大きさで、金属とも樹脂ともつかない質感の、無機質な物体だった。
幾何学的形状、明らかな人工物。これが……諏訪? 現実を見ようと努めるも、どうしたって理解が追いつかない。
生きているのだろうか。
ゾッとするような発想をしておきながら、感情の動かない自分を不気味に思う。――もしも今、換装体でなかったら、私はこの状況をどう受けとめているのだろう。
目の前のそれに触れることも、何か発することもできず、ただ呆然と見下ろすだけの私に、かける言葉を模索しているのか、まわりにはしばらく気を置いた空気が流れていた。
『寺島』
ふいに繋がった内部回線。聞き覚えのある落ち着いた声に我に返る。風間くんだ。
『諏訪の復元はいけそうか』
誰もが聞きたくて、けれど憚られていたその質問に、諏訪隊のみんながいっせいに雷蔵くんを見る。私も、ちょうど正面に立つ彼にすがる気持ちで身を乗り出す。
一方的な期待を浴びせられながら、雷蔵くんは変わらず冷静だ。モニタに流れる文字列に意識を乗せたまま、風間くんの問いに簡潔に答えていく。
「玉狛から送られてきた新型の解析データがかなり高精度だったからね。ここまで分かっていればシステムの再現は難しくない。今ちょうど3回目のテストを」
『ならすぐに起こせ』
瞬間、空気がヒリついた。
横暴とも言える一言で説明を遮られた雷蔵くんが、静かにタブレット端末を操作していた手を止めた。開きかけた口を一度とじ、唇を内側に巻き込んで噛むような仕草。苛立ちが透けている。
「……分かってると思うけど。どれだけ理論上正しいと思えるプログラムでも、絶対にエラーを起こさないなんて言い切れるものじゃない。ましてや未知の技術。万一にでも致命的な欠陥を残して、完全に復号できなかったら、諏訪がどうなるかこっちも保証できないよ。
それを、随分簡単なことのように言ってくれるね」
淡々としているようで、多分にトゲを含んだ物言いは、この場にいる人たちの息を詰まらせるのに十分な迫力があった。
“致命的な欠陥”、“諏訪がどうなるか” ――雷蔵くんが口にした不吉な仮定が、ぐるぐると脳内を駆けめぐる。本来感じるべき不安や恐怖が遮断されているので、かえって冷静な頭で、その仮定の顛末まで思考が至ってしまう。
現場責任者の彼が殺気立つのも当然だ。
一方で、内部回線越しの風間くんは、変わらず感情の読み取れない、抑揚の少ない口調で問答を続ける。
『お前たちのプレッシャーは分かっている。人命がかかっている以上、慎重に進めたいのは俺も同じだ。だが状況的に時間をかけてられん。例の黒トリガーの反応を見失った』
「は? 見失った?」
これには、声を殺して会話を傍聴していたメンバーもさすがにどよめいた。
「撤退した、ってワケじゃないよね」
『あくまで印象だが、ヤツの性格上、その可能性は低いな。トリガーの能力で潜伏しているのだろう。次にどこを狙っているのか、市街地か、あるいは……』
考えを巡らせるように言葉が切られたので、風間くんがどのようなパターンを想定しているのかは分からない。けれど、風間隊を退けるほどの脅威ならば、どの戦局に現れてもこちらにとって痛手を被ることになるだろう。
『いずれにせよ』風間くんは続けた。
『ヤツに対抗するには諏訪隊が適任だ』
唐突に指名されて、堤くんが身を固くするのが分かった。緊張か、もしくは困惑か、こめかみに玉の汗を浮かべている。
一方で、雷蔵くんには風間くんの考えが分かったみたいだ。ぼそりと独り言ちながら――スタメ、とかなんとか――先ほどまでとは別の観点で何かを考え始めている。
『諏訪を起こせ、寺島』
繰り返しの要求に、数秒の沈黙を経て、雷蔵くんはひっそりとため息を落とした。
「シミュレーション結果は?」
すぐ横のエンジニアスタッフに言葉をかける。
問われた彼は、慌ただしく、けれど、ひとつの見落としも許されないといった緊張感ある面持ちで、複数画面にわたるデータを見比べる。
「ここにあるテストケースはすべて試して、正常な動作を確認済みです。問題なく実行できるはずです……!」
全員が固唾を呑んで見守る中、彼は答えた。
頷いた雷蔵くんは、とうとう覚悟を決めたように見えた。周りのスタッフにひとつずつ指示を飛ばし、プログラム実行のための準備が着々と進められていく。
おサノちゃんが胸の前で組んだ両手に力を込める。真剣な眼差しで中央の台を見据える日佐人くん。2人の間に立って、肩に手を添える堤くん。
誰も不安を口にしない。信じてるんだ。開発チームの仕事を、雷蔵くんや風間くんの判断を。
諏訪は絶対大丈夫。私も自然とそう信じることができた。
けれど――……
無情に鳴り響いたブザー音が、またも現場の空気を一変させた。