5月、昼休み、校舎裏、非常階段。
高校1年、出会いエピソード。
その日も、下手くそでピッチのズレた音の断片が、窓を抜ける風に乗って落ちてくる。
***
ラップに包まれた握り飯を、具が何かなんざ気にする前に口に運ぶ。片膝を立てて片手で食う飯はお世辞にも行儀がいいもんじゃねえが、咎める目もない。いもしねえ他人の目なんかより、手元の活字をなぞる作業に集中する。
4限終わりのチャイムと同時、そそくさと教室を出た俺は、すっかり定位置となった非常階段の踊り場で弁当を広げていた。いわゆるぼっち飯だが、別にクラスの連中とソリが合わねえわけじゃねえ。むしろあいつらと馬鹿やってる日の方が通常運転だ。
ただ、今日はこっち。片手に開いた文庫本のページをめくる。読みかけた話の続きに没頭したい日は、こうして1人になるためにここへやって来る。
南校舎3階非常口を出てすぐの踊り場は、人目を避けるには都合が良い。俺はこんなナリだし、読書というキャラとはかけ離れている。教室で本なんか開いた日にゃ、連中にいじり倒されて鬱陶しいたらありゃしねえ。
あいつらのノリだの空気だのを壊す気もねえし、学校というコミュニティからほどよく距離を置けるこの場所は、案外居心地が良くて気に入っている。高校入学してすぐに見つけ、週に1〜2回はこの時間を楽しんでいた。
(……お、今日はいつもより早えな)
耳朶に触れた低音に、少しだけ意識を凝らす。そいつはいつも、昼休みが始まって20分ほどするとやって来る。特別教室ばかりで人気のない南校舎の空き教室、その窓から吹き抜ける金管の音色。
最初の頃は、どこのどいつが騒音垂れ流してやがんだと怒鳴り込もうかと思ったほど、聞くに耐えねえ有様だった。リズムや音階どころか、まともに音が出せてねえ。ぷすぷすとスカした息が漏れていたと思いきや、いきなりブフォッと汚ねえ音を破裂させたりする。ズブの素人が初めて楽器を触ったときのそれだった。
あれから約1ヶ月。相変わらず音程は狂いまくってるし、まともな演奏とはいかないまでも、ワンフレーズは続けて吹けるようにそいつも上達している。何度も何度も反復される聞き覚えのあるフレーズ。そいつが吹きたかったのが某有名な映画の挿入歌だったことが、今日ようやく判明した。
調子はずれのこのBGMが、俺は不思議と嫌いじゃなかった。校庭から聞こえてくる野郎どもの掛け声と、この練習中の金管が合わさると、いかにも学校の日常らしい環境音になる。
俺がこの場所にいる曜日はとくに決まってねえが、そいつはいつもそこにいた。誰だか知らねえが、よっぽど部活に熱心なのだろうと、中学から万年帰宅部の俺は密かに感心していた。
とはいえ、そいつが誰なのか、なぜいつも1人で練習しているのかなどはまったく気にもとめていなかった。
その日までは。
「えっ、あれ……、諏訪くん?」
読書に耽っていた俺は、急に開いた非常口からかけられた声に意識を引き戻された。
そいつも開けた先に人がいるとは思っていなかったのだろう、扉に手をかけたまま、ぽかんと立ち尽くしている。
話したことねえクラスの女子。名前――なんつったっけ? 前に田中が、クラスのかわいい女子ランキングで2位だか3位だかにあげてたヤツだ。
面倒臭えな。俺が最初に思ったことはそれだった。こんなところでぼっち飯を決めてる俺は、側から見ればダチのいねえさみしーヤツだ。憐れまれるか、蔑まれるか。別にどう思われようと関係ねえけど。
よく見るとそいつは、盛大にぶちまけたであろうチョークの粉まみれでスカートが真っ白だった。「やー、ドジっちゃった」と照れ笑いを浮かべて、俺から少し離れたところで制服を叩き始める。
パンパンと粉を払い落すリズムに合わせて揺れるスカートの裾。いや、男に背を向けて平気で前屈みになるな、無防備すぎんだろ。
「てかごめん、読書中にうるさかったよね」
振り向きざまのそいつのセリフで、思いがけず金管の音の主が判明した。いつもそこで練習してたのはこいつだったか。
「それなら今さらだな。俺よくここにいるし」
「えっ」
あからさまに狼狽え始める。下手くそな演奏をずっと聞かれていたのが恥ずかしいらしい。
俺はそれ以上何も言わず、視線を再び本に戻した。会話を続ける気もなかったし、そいつもすぐに練習に戻るだろうと思っていたのだ。
けれど、そいつはじっとそこを動かない。俺というより、俺の手元に意識が注がれている。「意外だね」と突っ込まれることは簡単に予想できた。こちとら何百回と言われ慣れたセリフだ。
「それ、私も読んだことある!」
「あ?」
予想を裏切る反応に意表を突かれた。
何がおもしれえのか、そいつの目は好奇心をありありと映している。今読んでいる本は、たしかに推理小説の鉄板とも言える有名タイトルだ。学校の図書室レベルでも下手したら置いてるだろう。俺もガキの頃に一度読んだシリーズで、古本屋で投げ売りされているのを見つけ、改めて読み返していたところだった。
「なんかこう、印象深かったセリフがあるんだよね。たしか――『もし理想の犯罪を注文できるなら、複雑なところが何もない、ごく内輪で単純な犯罪を』――」
記憶を手繰り寄せているかのように、難しい顔をしてそいつは言う。
それは本編とは一切関係のない、しかし実はシリーズ続編に繋がる伏線が描かれた冒頭のシーンだ。マイナーなネタだと思うが、こいつこう見えて読書家なのか?
「ポアロならふつー『灰色の細胞が活動し始めた』とかじゃねーの?」
「そうなの? ごめん、そんなセリフあったっけ」
期待は見事に外された。呆れが顔に出ちまったのか、そいつは申し訳なさそうに頬をかいた。
「読んだの結構前だから、内容うろ覚えでさ。けどあのセリフ、ミステリーといえば館とか仮面とか複雑怪奇な設定が定番じゃない? そんなの無くても、不可解さえあればいいって、この作者さんは案外皮肉屋なのかなーって思ったことだけ覚えてたんだよね」
どんな話だったか気になってきちゃった、図書室にあるかな。
そう言ってしげしげと表紙を眺めるそいつの興味は、その場限りの建前や社交辞令でなく、本心のように感じられた。だからってわけじゃねえけど、続けて出た俺の提案は単なる気まぐれだ。
「読みてーなら、貸すけど」
ぱちっと一度大きく目を見開いて、それから綻んだそいつの笑顔を、不覚にも悪くねえなと思う自分がいた。
どういうわけか、それからもそいつとはこの場所でたびたび会話する仲になっていった。6月も終わりに近づき、校舎裏にひっそりと植えられた紫陽花がぽつぽつ色付いている。湿っぽい空気に夏の暑さが混じるようになり、そいつのセーラー服も半袖に切り替わった。
俺が貸した本を、そいつは次会うときには必ず読み終わっていて、返却と一緒に感想が述べられる。そんなやり取りも今日で何度目か。
「だからね、ラストは主人公と同じ目線で衝撃の事実に圧倒されたっていうか、謎だった過去が一気に解明されたっていうか! 最初はなんでこの話、同じシリーズなんだろ? って思うくらい唐突だったけど、最後は納得したよ。いい意味で騙されたー」
「一作目から続く主人公が脇役で活躍すんのもいいよな」
「それ!」
こんな風に期待通りの反応を示してくるときもあれば、俺とはまったく違う視点の感想が飛び出すこともある。こいつはどうやら、犯罪トリックよりも登場人物の性格やバックボーンに興味を持つようだった。好きそうなのを見繕ってやって、興奮気味に感想が返ってくると普通に嬉しい。今まで読書は1人の趣味だったので、誰かと感想を共有するのも、誰かのために本を選ぶというのも、俺には新鮮な経験だった。
ひととおり語り尽くすと、そいつは満足したように練習に引き返していく。相変わらず昼休みを毎日練習に費やしている。華奢な身体で危なっかしく抱える、思いのほかゴツい楽器。ユーフォニアムというらしい。
ある日、なぜそんなに毎日熱心に練習しているのか興味本位で聞いてみた。
「中学からの友だちにね、人数足りないからどーしてもって誘われて入部したんだけど、私、金管なんて一回も触ったこともなかったからさ。早く追いつかないと足手まといなんだよね。ユーフォって不人気みたいで、パートに1人しかいないし」
「そのダチはどうしたんだよ。練習付き合ってくんねーの?」
「私以外みんな経験者だから、必要ないんじゃないかなあ」
「はあ?」
いやいや、ちょっと待て。
その回答の意味不明さに俺は思わず顔をしかめた。今の話のどこにも、こいつが頑張る理由が見当たらない。誘った友だちとやらは俺も知ってるヤツだが、見かけても教室でクラスメイトとだべっているだけで、部活に勤しんでるような話は聞いたことがねえ。
人数合わせに入部させられて、誰もやりたがらねえ楽器押し付けられて? そのうえ初心者1人放置された状況で、毎日せっせと自主練している?
こいつ、とんでもねえお人好しか、ただの大馬鹿なんじゃねえだろうか。
「おめー、馬鹿か?」
思っていることが何にも包まれずそのまま吐き出された。俺の口がわりいのはもうどうしようもねえ。
「んなことして、おめーに何の得があんだよ」
そいつは、そんなこと今まで考えてもみなかったようなツラして、両目を瞬かせた。
「――しいて言うなら、好きなものが増えたかな。ユーフォニアム、高校で初めて吹いたけど、結構楽しい。デカくてキンキラなのもかっこいい」
不人気と称されたその楽器を、そう言って自慢げに抱きしめる。
サックスだのトランペットだの有名どころを差し置いて、無骨なそれをかっこいいという感性もよく分からねえし、そのデカさの金属をずっと構え続けるのは女子にはきちいだろ。
「私、昔から自分で自分の役割を決められないんだよね。誰かの役に立ちたいなって思うんだけど、何ができるかも分からないし、決断力もないし。だから、これやってって頼まれると、つい張り切っちゃうんだ。何かやらせてもらえるんだったら、全力でその役割を好きになるの。そしたら好きなことして生きていけるでしょ?」
そいつはそいつなりの信念らしきものをそう語った。その考えだと、結局てめえが割を食う生き方にしか思えなかったが、どうやら嫌々やっているわけではないらしかった。
「諏訪はさ、実は結構空気読むし気づかいも上手だけど、流されるタイプじゃないよね。集団に溶け込んでても自分がやりたいようにやるスタンス? そういうとこ、実はちょっと尊敬してるんだけど」
「なんだそりゃ」
俺が怪訝な顔を向ければ、そいつはしたり顔で笑う。なんだこいつ、揶揄ってんのか? 俺のどこに尊敬要素があんだよ。
「私はもともと主体性がないというか、自分がやりたいこと、とくにないんだよね。下手したら高校3年間、何もしないで終わっちゃいそうだなって。だから、せっかく貰えた役割をやり切ろうと思ったの。夏にはコンクールもあるし。そりゃ、うちの部は全国目指すぞってレベルじゃ全然ないけど、ちょっとでもいい演奏にしたいもん」
(役割なあ……)
要するに、こいつは自分が何かするのに目的が欲しいってことなんだろう。自分で目的を見つけるのが苦手なだけで、何かを成し遂げたい意欲が強い。その場のノリと感情を優先して生きてる俺なんかより、よっぽど真面目で褒められた話だ。
にも関わらず、そいつの言い様はさも自分がつまらない人間であるかのようなニュアンスを伴っている。
俺は、なぜだかそれが無性に気に食わなかった。
「主体性がねえわけねーだろ。おめー以上に頑固で行動力の化身みたいなヤツ、そうそういねーっての」
呆れ気味に指摘すれば、案の定そいつは意味を計りかねる様子で頭に疑問符を浮かべた。自分がどれだけとんでもねーヤツか、本気で分かっていない様子だ。
「流されるヤツは、誰もいねーとこで黙々と練習なんざしねーの。もし俺が、んなことやってても誰も褒めねえし辞めちまえっつったら、おめー、辞めるか?」
「ん……辞めないかな」
「だろーな。どうせ人の言うことなんざ聞きやしねえ。充分自分勝手にやりてえことやってるヤツだよ、おめーは」
初めて話してから1ヶ月足らずの、ろくすっぽ付き合いもないクラスメイトだが、俺にはそう断言できる。窓から漏れ聞こえる金管の音色は、最初のたどたどしさが嘘のように、しっかり1曲通して演奏するまでになっていた。
「それって褒めてるの?」
「おー、褒めてる褒めてる。くそ面倒臭えヤツだなと思っちゃいるけど」
「ええー」
困ったように顔を引き攣らせるそいつを見て、俺はふはっと吹き出した。やっぱり全然分かっちゃいねえ。謙虚なのは美徳かもしんねえが、こいつはもっと自分を評価すべきだ。
「つーか俺だって別に、言うほどやりてえことあるわけじゃねえよ。せいぜい本の続き読みてえとか、勉強よかダチとつるんで遊びてえとか、欲しいもん買うためにバイトしてえとか、髪染めてみてえ、とか?」
本当は15の男子高校生らしく、もっと煩悩じみた欲求も思い付いたが、それは言わないでおいた。
「そういう、とくに大それた目的なくやりたいことなら、おめーにもあんだろ」
視線をそれとなく、貸してやった本に向ける。こいつが自分から興味を示したもの。義務感じゃなく、ただ楽しくてこのやり取りが続いていることは、読後の感想を聞いていれば分かる。
俺の視線をなぞり、本に目を向けた後、そいつは納得したように今度は俺自身を見た。
「たしかに。私、諏訪ともっと話してたいかも」
「…………はあっ!?」
あまりに俺の意図とズレたことをぬかすので、一瞬、理解が追いつかずに硬直してしまった。
こいつ、臆面もなくいきなり何言い出しやがる。
「いや考えてみたら、最初に諏訪に話しかけたの、珍しく自分からだったなーって。なんでか分かんないけど、諏訪に興味持ったみたい。実際話してみてやっぱ楽しいし。だからもっと、諏訪と仲良くなりたい……、あ、あれ、なんか、めっちゃ恥ずいこと言ってる? 私?」
俺の目の前で、落ち着きを無くした顔がみるみる赤く染まっていく。
唐突に我に返るな! 気まじいだろーが!
こいつ――さっき俺が思ったけどあえて口にしなかったことを、あっさりと……!
ただでさえ蒸暑い空気の中、身体が熱っぽく反応する。くそ、ダセェ。何を勘違いしてんだ俺は。今のそれは、そういう意味じゃなかっただろ。
「な、なんかごめん。私、練習戻るね!」
わたわたと本と楽器を抱え、逃げるように校舎へ引き返していくそいつは、昼休みがもう5分も残っていないことを分かっているだろうか。
非常口をくぐって扉を閉める直前、ためらいがちな瞳が隙間からこちらを覗いた。
「あの、またメールするね。これの続きも楽しみにしてるから」
「おー……」
俺の生返事に、そいつはほっとしたように笑ってみせた。一瞬だけ見えた笑顔に、再び気持ちがそそられる。
最後まで爆弾を落としていきやがる。マジで、とんでもねー女。
あーこれ……、教室戻るまでに正気に戻れっかな。
とりあえず、田中はシバく。なにがかわいい子ランキング2位か3位だ。文句なし1位だろ、あんなもん。