3-3 降伏
諏訪がわざわざデート場所に設定したのは、雰囲気のいい専門店だった。
和を基調とした、静かで落ち着いた店内。普段行くような居酒屋よりはるかに品があって、それでいて気取りすぎてもおらず、客層は若い。
大学生でもギリ背伸びしすぎていないくらいの敷居ではあるけれど、ちゃんと特別感もあるような、周到に選ばれた感のあるお店の佇まいに腰が引けた。こちらは変に気合いが入っているとか思われたくなくて、あえて着替えもせず来たというのに。
掘りごたつの半個室に通される。
席に着くなり、諏訪はこなれた調子で、おしぼりを持ってきた店員さんに「生ひとつ」と宣言する。
「おめーは?」
「えっと、ウーロンハイで」
注文を受けた店員さんはにこやかに厨房へと下がって行った。
テーブルに広げられたメニューを見ながら、諏訪がご機嫌に語り始めた。
「全部美味そうだけどよ、最初はやっぱ店オリジナルの白出汁がテッパンらしいぜ。東さん情報」
「諏訪もここ初めて来るの?」
「おう。野郎どもと行くのは居酒屋か、焼肉ばっかだからな。そっちも美味えから今度行こうぜ」
このお店のチョイスは明らかに諏訪のセンスではないので、東さんのコーディネートというなら納得だ。
諏訪の話にたびたび出てくる東さん、まだ挨拶程度でしか面識がないのだけれど、ボーダー内では貴重な歳上の隊員さんで、諏訪が懐いている雰囲気を感じる。なんとなく、すごくモテる人なのだろうというイメージだけが醸成されている。
間もなくやって来たお通しとドリンクが目の前に並べられた。
「ん、とりあえず」
突き出されたグラスのフチに、こちらもグラスを傾けて、小気味のいい音を奏でる。
待ち兼ねたようにそれを煽った彼は、勢いよく喉仏を上下させて、あっという間に4分の3ほど飲み下してしまった。
「はー! っぱプレモルだわ。うめー。まじで生き返る」
あまりにも気持ちのいい飲みっぷりに、グラスに口を付けたまま唖然と見入っていると、諏訪がふと漏らした。
「おめーと酒飲むのは、初めてだな」
「!」
いつかふたりでお酒を飲みに行こう、なんて笑って話していたのは、いつだったっけ。
諏訪とこうして食事に出かけるのは、大学1年生以来。当時未成年だった私たちは、お酒もタバコも嗜んでいなかった。
今のこの風貌からはとても信じられないけれど、19歳の諏訪はしっかり健全だったのだ。何かあってボーダーに迷惑をかけたくない、というようなことを言っていた気もする。
20歳を過ぎて、大学の喫煙所でスパスパ煙をふかす諏訪を最初に見かけたときは、それなりに衝撃を受けた。
「飲むのか? 酒」
「弱くはないけど、ビールは、味が苦手。カクテルはジュースだって言われちゃうから、とりあえずこれずっと飲んでる」
「っは、おめーらしい理由だなあ。じゃあ今日は違うのも飲んでみようぜ。ワインか日本酒……お、ここ日本酒の種類すげーあんじゃん」
メニューを挟んで弾む会話。
あーだこーだと、諏訪が気になったものを上げていって、一緒に選んで、注文して。テーブルには、あっという間にいろいろな具材が並べられていく。
「! っ美味しい…!」
「やべーなこれ! もう一個頼もうぜ」
頼んだお料理は、本当にどれも美味しかった。
お酒も美味しくて、珍しくお代わりなんてしたりして。初めて飲んだ日本酒は、銘柄を忘れないようにしっかり記憶に刻んだ。
私はひたすら料理の感想を共有するだけで、諏訪が広げた話に相槌するほか、盛り上がるような話題はほとんど提供できなかった。
それでも、諏訪はずっと笑っていて、楽しそうで。それにつられた私も、きっと自然に笑っていた。
美味しいね、と言って笑い合う、それだけの時間が過ぎていった。
「あー、食ったァ……さすがに食い過ぎたわ」
夜道をふたり並んで歩く。
時間はまだ21時を回ったところで、繁華街ではこれから夜を謳歌する人たちも多いくらいだろうけれど、今歩いているあたりに他の人影はない。警戒区域方面に進むにつれて、人の営みの気配は段々と薄れていく。
アルコールがほどよく回って、ふわふわと気持ちがいい。食事が楽しかったのも相まって、気分の高揚が少し足取りに現れている。
諏訪の方は、普段の飲み会での量からすれば全然飲んでいるうちに入らないそうで、姿勢も顔色も何ひとつ変えずに平然としていた。
「おーい酔っ払い、少しそこで酔い冷ましてくぞ」
促されたのは、若干小綺麗に整備された広場のような場所だった。
石畳風の歩道脇に、人工的に緑が植えられていて、街灯の下には木製のベンチが備え付けられている。
言われた通りにベンチに座って待っていると、自販機から出てきたばかりと思われるペットボトルの水が差し出された。
「……手、冷たい」
「文句言うな、飲め」
コートに仕舞い込んでいた素手をおずおずと取り出してそれを受け取ると、想像通り氷のような冷たさだった。
キャップのところの、なるべく細い部分を持つようにして口に含む。喉を通る冷たさは気持ち良かったけれど、火照りが落ち着いてすっかり酔いも引いてしまった。
「部屋に帰るくらい、ひとりで大丈夫なのに」
別に意識が怪しいわけでも、歩けないわけでもないし。
ほろ酔いくらいで妙に甲斐甲斐しく世話を焼かれているなあと、なんとなしに呟いたら、諏訪は怪訝な顔をした。
「は? いやこのままおめーに帰られると俺が困るんですけど? 何のために遠回りしてると思ってんだ」
ぽかん、と何も考えず素直な感情で諏訪を見上げる。そして、すぐに後悔することになる。
私、今日何しに来たんだっけ。
「おめーまさか……」
諏訪の目付きがますます凶悪さを増していくのを見て、いよいよ自分の間抜けさに気づき、冷や汗が出た。
最初は、たしかに意識していたはずだった。
いつ本題を振られるかと気が気じゃなかったし、そんな私を気づかって、諏訪がいつも通りの振る舞いを変えないようにしていたことも、途中まで察してたはずなのに。
「ハァ~!? マジかよ、おめーがあまりにも心ここにあらずな感じで来るから、話せそうになるまで待ってやってたっつうのに」
「や、すわ、あの、ね」
さすがに申し訳なくて、どう彼の面目を取り返したらいいか考えて途方に暮れる。
美味しいものに気を取られて、本題を忘れるなんてバカすぎる。
がくっと項垂れた金色の頭頂部が切ない。
今回ばかりはアルコールのせいにしてしまいたかった。いっそ潰れるまで飲んじゃえば良かったんだ。
「ごめんなさい」
どうにも言い訳の余地がなくて、消え入るように謝ったら、諏訪はバツが悪そうに頭を掻きむしった。
「まあ、待ってやったっつーのは建前だな。言い出さなかった、つか、言い出せなかったのは俺の都合だ」
「……?」
「おめーが、なんかすげえ楽しそうにしてっから、水差したくなかったんだよ。この話始めたら、どうせ深刻な顔してもだもだ言い始めんだろ」
図星を突かれて、うっと口元が引きつる。
見透かされてた……迷いがあるのも、そのことを忘れてしまうほどさっきまでの時間が楽しかったのも、その通りだった。
「ほらなあ。思った通りしかめっ面。せっかくさっきまでニコニコしてやがったのによ」
「……諏訪、」
「やっぱ俺、フラれる?」
思いがけない単語をぶつけられて、心にざわりと波紋が広がった。
ベンチに座る私と目線を合わせるように、目の前にしゃがみ込んだ諏訪。いつもの豪胆さはすっかり鳴りを潜めて、問いかける声には自信がない。
「違うの、諏訪」
「違わねえだろ。好きな女に、付き合ってくれって言おうとしてんのに、その女は断る理由ばっか探してんだぞ」
「それは……っ」
「上層部まで動かして、条件付きとはいえ公式におめーに触れる権利ももぎ取ったんだ。あと何を努力したら、おめーは頷いてくれんだよ」
違う、違うよ。
私、諏訪が好きなの。
諏訪にそんな風に言われたら、たぶん、このままじゃ断れない。それがどんな後悔を伴うかなんて自信もないくせに、全部考えるのを辞めて、諏訪の腕の中に戻りたいって言っちゃう。
ダメだよ。自分で自分を守れないような私が、弱い私が、諏訪に何もかも背負わせちゃう。諏訪の自由を縛っちゃう。そんなの良いわけない。
私は私を納得させるために、貴方を諦める理由が必要なの……!
「っ……」
本音をぶちまけたい気持ちを必死で堪える。
唇を噛み締める私を見て、諏訪はますます不満そうに突っかかってくる。
「だいたいよォ、忘れるってなんだよ。俺の気も知らねえで。こちとら飯食ってる間もずっと、今すぐ抱きしめてえって煩悩で頭いっぱいだったっつーのに」
「っ!? 抱……!?」
「隣歩いてる時も、手繋ぎてえとか、支えるふりして肩抱きてえとか、おめーに触れることばっか」
「ちょ、諏訪、何言ってるの」
「しゃーねえだろ。俺が言ってんのは、最初からそういう意味なんだからよ。もう一生おめーに触れられねえとかマジで無理。そう思ってんのは俺だけか?」
もう完全に酔いは醒めてしまったのに、バクバク音を鳴らす心臓が、あの夜屋上で感じたそれと重なって記憶を甦らせる。
与えられる感触が全部全部幸せで、どれだけ腕を伸ばしても、力を込めても足りなくて、諏訪に触れていない部分がなくなっちゃえばいいと思った。
だからこそ、抗えないのが怖くなった。
諏訪が触れたいと言った私の手のひらが小さく痺れる。勝手に期待し始めてしまった身体を、理性で押さえつけるけれど、今度は心が苦しくなった。
この忌々しい心臓が跳ねるたび、諏訪と近づいちゃいけないことを私は何度も自分に言い聞かせなきゃならないのに。
どうして諦めさせてくれないの。
「ダメだよ……だって私、諏訪を後悔させない自信がない。何があるか分かんないんだよ? この体質に干渉し続けたら、突然、身体のどこかが壊れちゃうかもしれない。またなんだか分からない敵にいきなり襲われるかも。
それに、私と一緒にいるってことは、三門から出られないってことだ。この街で、他の生き方を選べずに縛られるのは私だけでいいんだよ。諏訪がわざわざそんなことに付き合う必要なんて、」
「後悔なんざとっくにしてんだよ!」
割り込んできた怒声に、論えた主張を全部ひっくり返された。
険相を顕にした諏訪が、驚き怯んだ私に気付く余裕すら無くして捲し立てる。
「俺の後悔は、2年前、おめーを手離しちまったことから始まってんだ。あんだけ傷付けて、泣かせて、今さら虫がいいってな分かってる。
けどなあ! 俺は何のために、ボーダーに入った? 走って逃げるだけじゃ、次はおめーを守れねえと思ったからだ。何のためにおめーを手離した? おめーに、笑って生きてて欲しかったからだよ!
今だってその気持ちは変わんねえ。けどおめーは、俺に守られることを拒むうえに、全然幸せになろうとしねえじゃねえか。嫌われちまったってなら諦めもつくけどよ、どう見たって、そうじゃねえだろ。
SEのせいで自由を奪われてんのはおめーも同じだろ! 惚れた女をひとりでそんな目に合わせておけるかよ。ここでおめーの手を取れなかったら、俺は一度でもおめーを手離した自分を一生許せねえ。
俺の後悔がどうのとかほざくんなら、素直に俺との幸せを選べ、バカ!」
言葉の節々に、痛いくらいの想いがこもって、まるで散弾を浴びせられているみたいだった。
殺傷性のある言葉の散弾が、もともと心許なかった私の倫理観を、端から削っていった。
誤解でなければ、諏訪は怖いもの知らずで私と付き合おうって言っているんじゃない。どうなるか分からない未来への不安よりも、今、私が彼を拒絶する方が怖いって、多分そう言ってる。
諏訪を諦めさせるには、私が諏訪を嫌いにならないといけないらしい。そんなの無理だよ。思ったことないし、これからも思えないもん。
それに……どうしたって無視できない気持ち。
嬉しい。
諏訪が、こんなに必死に私を取り戻そうとしてくれていることが。
いつもなんだかんだ私に甘いのに、今だけは、我を通してでも私を諦めないでいてくれていることが。
私が諏訪を諦めることを諦めるには、あとほんの一押しあれば充分で。
その最後の一押しを、私はもはや自ら求めてしまっていた。
「……2年前、別れ話されたとき。ほんとはちょっと思ってたの。諏訪は優しいから、私があのまま泣いて、泣いて、嫌だってわがまま言い続けたら、考え直してくれるんじゃないかって。実際ちょっと揺れてたでしょ?」
「……ああ」
「あの時はね、もうちょっとで泣き落とせるって分かってたけど、我慢した。情に訴えるなんてダメだって、精一杯いい子ぶってさあ。
……けど次は、たぶん無理。諏訪が別れたいって言っても離れてあげられない。本当はものすごーく重い女なの、私」
「……ッ、知ってるよ、んなこと、誰よりも」
「だから……離れるの、これが最後のチャンス……」
「離さねえ」
迷いのない瞳が私を射抜く。
立ち上がった諏訪が、少し離れた位置から私を見下ろしていて、その瞳に見覚えがあったから、私は、これから何を言われるのか先に分かってしまった。
「好きだ」
想像と一言一句違わない音で、色で、温度で、諏訪の言葉が私の感情と思考を支配した。
胸がキュウッと反応して、甘く痺れて、全身に広がっていく感覚。
好きな人と、気持ちが通じた幸せな感覚。
かつて諏訪に覚えさせられた感覚。
ほらね、やっぱり、諏訪に勝てるわけない。
脳内で粘っていた理性が、渋々白旗を上げるのが分かった。
最後の最後はこの男に陥落されてしまうのだろうと、ほんのり抱いていた――期待していた予感は、その通りになった。
見つめたまま言葉を噛み締めていたら、無言の時間に耐えかねるように、先に諏訪が根を上げた。
「こないだみてーに、問答無用で抱きしめてキスしたら、大人しく俺のもんになったりしねえ?」
「ばか。……そんなことしたら、せっかく認めてもらったのに、忍田さんの信用無くしちゃうよ」
「!」
頑なさが消えた私の台詞に、言外の意味を察した諏訪が、わずかに目を見張った。
恥ずかしいから、わざと平然と言ってみたけれど、その強がりもきっとこいつは全部察しちゃうんだろう。
細く吸い込んだ冬の空気が、胸の奥を冷やすのを感じてから、ゆっくり吐き出す。
「私を……っ、諏訪の彼女に、してください」
改めて言葉にするのは、とても勇気が要った。
私は臆病で、諏訪みたいに、どうにかしてやるなんて気概で行動できない。
抱えてる不安も葛藤も、本当は何も解決できていないけれど、不安や葛藤を抱えたまま一緒にいてくれる人が必要なんだって、いい加減認めて甘えるしかないのだ。
尻すぼみになりそうなのをなんとか言い切って、応答を待つ。顔が赤いのは自覚していて、俯きたくなったけれど、情けないから必死に耐えた。
「……おう……」
目を見張った顔のままこぼれ出た声は、なんだか間が抜けていた。
想定外にはっきりと言葉で返されて油断したのだろう。さっきまでの格好良さはどこかに行ってしまった。
睨めっこするみたいに、お互い目を逸らせない時間が続いて、やっぱり先に折れた諏訪が、本当に不本意な様子で後頭部を掻き回した。
「……、クソ、本当ならここは歩み寄って抱き合う場面だろ」
「前途多難だね」
照れ隠しと思われる諏訪の言葉だけれど、同意だった。
こんなに遠回りして、ようやく気持ちが通じ合っても、私たちの物理的な距離を無くすにはまだ必要なステップがある。
気持ちを固めた途端、この距離を一刻も早く無くしたくてこんなにもどかしいの、我ながら現金だなあって考えたら、少し笑えた。
「帰んぞ。おめーの気がまた変わんねえうちに、速攻で申請出す」
「この時間にアポ無しで押しかけるのは迷惑……」
「知るか。こちとら普段から命かけて戦ってんだ、沢村サン残業させてでもこんくれえの権利」
「諏訪、諏訪、私逃げないから、ねえ」
速足で本部へ向かおうとする諏訪を、慌てて宥めすかす。
隣に並んでも、縮めることができない距離。
しんと静まり返った夜風は冷たくて、コートからはみ出た部分の体温を容赦なく奪っていく。
諏訪が、手を繋ぎたい、なんて言ったから。
帰り道は、指先の冷たさを余計に感じた。