椎名と三上
都大会準決勝、試合後のお話
『そっか、高槻が俺の代わりに』
受話器越しの声は小さく、苦しそうな咳が混じっている。
準決勝後、控え室でひと通り帰り支度が済んだ直後、小林に試合結果を電話で告げた麻衣は、申し訳ない気持ちで続けた。
「すみません。先輩のユニフォーム、わたしが勝手に着ちゃって。しかも決勝にも届かなくって」
『いや、俺の方こそ迷惑かけたよな。むしろ高槻が出てくれて良かったよ。欠員になってたら、アイツらに一生頭が上がらないとこだった』
力なく笑う小林は、相変わらず優しい。この結果が1番堪えるのは、最後の最後に欠場を余儀なくされた彼のはずだが、麻衣に負い目を感じさせまいとしたのか、自身の心情はひと言も漏らさなかった。
通話を切り、携帯電話を翼に返す。
「もう歩けるんだな?」
「うん、平気。このあとの試合もばっちり見て行かなくっちゃ」
トーナメントの反対グループの準決勝が、間もなく同会場でキックオフする。勝った方が決勝進出。負けた方が、明日の3位決定戦で飛葉中と当たるチームである。
虚勢ではないと証明するように、麻衣がガッツポーズをして見せると、翼は少しだけ眉を下げた。
「OK。ならとっとと行こーぜ」
そう言って控え室のドアを開ける。玲や他の部員たちは先にスタンド席に移動していて、翼だけを待たせていた。なんだかんだ面倒見の良い兄貴分に感謝しつつ、その背中を麻衣も小走りで追いかける。
ところが、部屋から一歩出た瞬間、翼が急に立ち止まったので、その後頭部に思い切りつんのめってしまった。
「……ったー」
ぶつけた鼻をさすりながら、肩越しに前方を伺う。
翼と対峙していた人物のうちのひとりが、背後の麻衣に気づき、ぱあっと明るい笑顔を浮かべた。
「麻衣ちゃん!」
扉を開けた先の廊下で待っていたのは、揃いの学校指定ジャージに身を包んだ武蔵森の3人だった。
「誠二くん。と、渋沢さんに……三上、さん」
嬉しそうに手を振る藤代の後ろに、腕を組んで壁にもたれる三上、2人を監督するように立つ渋沢の姿。
三上を目に留めた途端、麻衣は昨日の応酬を思い出し、つい翼の影に身を隠してしまった。その名を呼ぶ声ももごもごとはっきりしない。
なんとも言えない空気の中、ひとり楽観的な笑顔を称えたままの藤代が、無遠慮に歩み寄ってくる。
「びっくりしたー、あの10番、女の子だったの? って思ったら、麻衣ちゃんだってキャプテンに聞いてさ! 髪型違うし、全然気づかなかった。あ、ショートも似合うね」
渋沢と面識を持ったのはゲームセンターで別れ際の一瞬だったが、しっかりと顔を覚えられていたらしい。
敵チームメンバーと試合前日にあんなところで出くわすのが偶然のはずがないので、おそらく、敵情視察だったこともバレてしまっただろう。麻衣はより気まずくなった。
「ゲームだけじゃなくてサッカーも上手いとかヤバすぎる! なあなあ、今度一緒に……」
「ちょっと、人を挟んで堂々とナンパしないでくれる」
身長差でかなり見上げる姿勢になった翼が、不愉快そうに一喝した。背後にいる麻衣にはその表情は見えないが、口調からだいたい想像する通りだろう。
「麻衣。これ一体どういう状況? なんでコイツらが麻衣のこと知ってるの?」
「その……、話すと長くなる、というか」
案の定矛先がこちらに向いたので、麻衣は顔を背けてごまかした。昨日、武蔵森の偵察に行った折、この3人と顔見知りになってしまったことは翼に報告していなかった。ただでさえ長いお説教を、あれ以上長引かせたくなかったので。
「椎名こそ、麻衣ちゃんとどーいう関係だよ。俺も仲良くしたいのに、ずっりーの」
「そのへんにしておけ、藤代」
渋沢が後輩の肩に手を置いて嗜めた。
「麻衣さん、というのだな。もう体調は平気なのか?」
玲に聞いた話では、倒れた自分に最初に駆け寄り、介抱したのは渋沢ということだった。今も真っ先に体調を気づかうセリフを投げかけられ、人格者であることは疑いようもない。
麻衣は慌てて翼の後ろから前に出て、頭を下げた。
「はい! その節はお世話になりました。もう全然平気です。ありがとうございます」
「うん、顔色も戻ったようで安心だ」
そう言うと、彼は右手を麻衣の前に差し出した。
「ナイスプレーだった。本当に、君には最後まで苦戦させられたよ」
渋沢の言葉に、麻衣は素直に感動してしまった。
相手は日本一と名高いGKだ。活躍の舞台はそれこそ全国区、そして世界レベル。そんな彼が、自分のような一介のプレイヤーに敬意を表してくれている。
おそるおそるその手を取ると、力強く握り返された。大きくて皮の厚い、頼もしい守護神の手だ。この手で数多の名セーブが生み出されたと考えると、ドキドキして、ついじっと見つめてしまう。
その様子を、隣の翼は面白くなさそうに眺めていた。
「用件はそれだけ? ならもういいだろ。試合始まっちまう」
スッと間に割り込まれ、自然と手が離れる。
翼の言う通り、もう5分もすれば次の試合が始まってしまうだろう。ビデオの設置などは麻衣が1番手慣れているので、早めにみんなに合流したい。
そういった事情が伝わったのか、渋沢はすまなそうに苦笑した。
「いや、藤代がどうしても彼女に会いたがったのと、実は三上も心配していてな」
三上の名が出たことで、麻衣は「ウッ」と息を詰まらせた。
彼との初対面は最悪だった。さんざん人をからかった挙句、セクハラまがいの発言まで飛び出す最低男。とはいえ、問答無用で投げ飛ばしてしまった非が自分にはある。さらには不法侵入を見逃してもらうという借りまで作る体たらく。
顔を合わせずに済むならそれに越したことはなかったのだが、そうも言えなくなってしまった。意識を失った自分を、控え室まで運んだのはどうも彼らしい。そこまで世話になっておいて、気まずいからと無視するわけにもいかない。
「三上先輩、麻衣ちゃんとどこで知り合ったのか、全然教えてくんないんスよねー」
「いいだろうが、んなこた別に」
すねた藤代が唇を尖らせる。どうやら三上は、麻衣のスパイ行為をチームメイトにも黙っておいてくれる気らしい。
再び翼の後ろに半分身を隠しながら、麻衣が視線を送ると、腕組みをした仏頂面と目が合った。
「……よお」
向こうもなんと言っていいか分からないのだろう、短い挨拶だけが飛んできた。
麻衣は覚悟を決め、深呼吸をする。
「三上さん。今日は助けていただき、ありがとうございました。それに、き、昨日のことは……その……そんなつもりじゃなかったというか、条件反射というか……とにかく、ごめんなさい!」
勢いよく頭を下げる。
彼もチームメイトの前で仔細を語られたくないだろうと、前提を省いてしまったが、おそらく伝わったはずだ。
かえって意味深な言い方に、周りの興味を掻き立ててしまったと気づいていないのは本人だけである。
麻衣の謝罪に、三上はバツが悪そうに頭をかいた。
「あー。んなのはどーでもいい。つーか、悪かったよ、俺も」
藤代が驚愕の表情を浮かべた。
「三上先輩が謝った……!」
「どうしたんだ三上、今日のお前は俺から見ても変だぞ。彼女相手だと随分らしくなくなるじゃないか」
「ちっ、うるせーな」
三上は、寄りかかっていた壁から背を離し、つかつかとこちらに歩いてきた。
らしくない、というのは本人も自覚があるのだろう。よそよそしく、落ち着かない様子が表情に出ている。
「間宮の馬鹿、容赦なく体当たりとかしてきただろ。ケガはしてねーのか」
「へ? や、大丈夫ですけど……?」
「そーかよ。はっ、昨日といい、やっぱとんだジャジャ馬だな、お前」
相変わらず人を小馬鹿にしたような、驕慢な笑み。しかし、今はそれが単なる照れ隠しであることは、さすがに麻衣にも分かった。
自分を心配する言葉は、どうやら彼の本心だ。
思いがけない一面にこちらも戸惑ってしまう。
「こいつは驚いた」
ぎこちないやりとりに、口を挟んだのは翼だった。
「武蔵森の10番、アンタがそんな他人を気遣えるヤツだったとはね。てっきり自分が1番の勘違い俺様野郎かと思ってたんだけど。それとも、案外女には甘いタチ? そういうギャップで女ウケ狙おうとしてんなら、うちの麻衣には通用しねえぜ。なんせ察しの悪さは一級品だからな、コイツ」
「は!?」
何故か流れでとんでもなく失礼な評価を受けた麻衣が、翼の発言に過剰反応するも、文脈が理解できず固まる。
突然好戦的になった翼は、挑発混じりの笑みを三上に向けている。
対する三上も、まんまと挑発に乗ったようで、片眉を吊り上げて反論した。
「ああ? そーいうお前も、コイツが倒れたときは随分献身的だったじゃねーか。必死の形相でよ。実はお優しいんだな、椎名サンよ」
「部員をマネジメントするのは部長の仕事だからね。それより、麻衣のケガの心配までするなんて、随分前からコイツを気にしてたみたいじゃないか。試合中に何考えてたんだか」
「ぐっ……」
痛いところをつかれたというように、三上の顔が歪む。
「ちょっと翼! さっきのどーいう意味!?」
「そのまんまの意味。ほらな、なんも伝わってないだろ?」
憤慨する麻衣の抗議を、翼はいつものごとくサラリと受け流した。呆れたような、諦めたようなその言い様に腹が立つ。何が気に食わないのか、麻衣にはちっとも分からない。
「コイツに遠回しなアプローチなんざやるだけ無駄だぜ。じゃ、俺らもう行くから」
有無を言わさず先へ進もうとする翼の後を、納得いかないまま追いかける麻衣。
2人が三上の横を通り過ぎる際、三上は冷めた声で呟いた。
「いーのかよ」
「は?」
「遠回しじゃないアプローチして、いーのかよ、つってんだよ」
何か後に引けなくなった様子の三上が、鋭く、少しばかり真剣味を帯びた視線を翼に浴びせる。
立ち止まった翼も、一瞬、意表をつかれたように目を見張ったものの、怯むことなく応戦し、無言の睨み合いが続くこと数秒。
「……ふーん」
そっけない感嘆詞のあと、ふいに麻衣は腕をつかまれ、身体を翼の側に引き寄せられた。
突然のことにバランスを崩し、「わふっ」と言って翼の肩に衝突する。腕に寄りかかる形で、すぐそこに翼の顔があって、密着した部分からは彼の体温を感じる。
「まあ、せいぜいやってみれば? コイツがいつも誰を追いかけてるかなんて、嫌でもすぐ分かると思うけどね」
「〜〜〜の野郎……ッ」
三上の最大級の苛立ちの表情を引き出したところで、翼は満足そうに、麻衣を引きずったまま出口へと向かった。
終始謎の罵り合いに巻き込まれた麻衣は、ワケが分からないといった面持ちで、自分の腕を引く翼と、離れていく三上の双方を見比べる。
「ねえ! 10番とはそんなに関わりないって言ってなかった? 実はめちゃくちゃ仲悪いの?」
「たった今悪くなったんだよ」
「えええ??」
***
「……三上、俺はお前の味方をするぞ? 友人として」
「俺も俺も! 断然先輩派っス! 椎名のヤロー、自信満々でなんかムカつくし!」
「そらドーモ」
売り言葉に買い言葉で、つい要らぬことまで口走った三上は、怒りの熱が冷めるとともに軽い自己嫌悪に陥った。
あの女のことはたしかに気に入ってはいたが、あの言い方ではまるで、自分が一方的に焦がれているようではないか。
まだ出会って2回目の、人柄も何も知らない女に、感情を取り乱されるなんてどうかしている。渋沢の言葉を借りるなら、今日の自分はらしくない。
だが、アイツの隣に当たり前のようにあの男がいるのは、どうしたって癪に触るのだ。
親しそうな間柄だった。人見知りな印象の彼女も、椎名相手にはかなり気を許しているように見えた。
ふと、アイツがあんな無茶をするのは、全部あの男のためなのではという気がしてきて、再び腹の底が沸々と煮えたぎるような感覚を覚える。それがみっともない嫉妬心だとしても、自制するのは難しそうだ。
客観的に、随分自分に分が悪い勝負だと思う。
けれど、どんなに届きそうにないものでも、欲しいと思えば手を伸ばさずにはいられない。
三上亮はそういう男だった。
その後、ことの顛末は藤代によって吹聴され、三上の初恋について誇張した事実がサッカー部全員の知るところになるのは、また別の話。