【朝と小雨】やりなおし青春スプリント
小雨さんと企画夢。「風間さん」「朝」「小雨」「校庭」というお題をいただきました。
雲間から透けてにじんだ光が、霧のように漂う雨粒に溶けていた。濡れた空気は鈍く輝きながら私たちを包み込んでいる。
タン、タン、タン──グラウンドを蹴るスパイクのリズムが間隔を整えながら、踏み切りの一歩へ向けて収束していく。音が途切れたと同時、彼の身体は弾かれたように宙を舞い、その鮮やかな放物線から私は目を離せなかった。
何度も往復し、繰り返される光景。跳べても、跳べなくても、まるであいつには1本のバーしか見えていないみたい。
その実直さが眩しくて、妬ましくて。
思わず口をついた私のバカげた問いに、あの生意気な後輩は、なんて答えたんだっけ……。
***
正面で重ね合わせた両手が、気を抜くと震え出しそうだった。スーツなんて入学式ぶりで全然着慣れてないし、ひっつめた黒髪も、当社比30%のナチュラルメイクも、何ひとつ私に自信をくれない。
落ち着けー、相手はただの高校生。ただでさえ年齢が近くて舐められがちなんだから、緊張なんか気取らせるな。謎のプライドと体育会系根性を総動員して声に力を込める。
どうにかして自己紹介と意気込みを言い終えた。事前に練り上げた構成はどこへやら、口を開いた瞬間に全部吹っ飛んで、薄っぺらい言葉を並べただけの散々な挨拶になった。
最後に深く頭を下げると、教室から一斉に拍手が起こった。さすがは進学校。変に囃し立てたり無視したりせず、反応も優等生だ。
「今日から2週間、教育実習中は彼女もお前たちの先生だ。授業で分からないことがあれば積極的に聞いてみるといいぞ」
クラス担任が続けた言葉に、慌てて笑顔を貼り付ける。先生、なんて呼ばれてそれらしく振る舞えるんだろうか。慣れ親しんだこの教室で、自分が教壇側に立っていることだって、いまだに実感持ててないっていうのに。
大学進学を機に県外へ出て4年目。地元に戻ろうなんて、1度も思わなかった。下手したらもう二度と三門に脚を踏み入れることすらないと思っていたのに、まさか教育実習という名目で、母校・六頴館高校の門を再びくぐることになろうとは。
「個別の自己紹介は追々やるとして、代表でクラス委員の歌川。歌川いるかー?」
担任が生徒の方に呼びかける。反応はなかった。シン……とやや間があって、教卓前に座った女子生徒が声を上げた。
「せんせー、今日歌川くん特別公欠です」
「そうらしいな。それじゃ代わりに副委員の……」
(特別公欠?)
聞き慣れない用語が耳に残る。そんな制度、高校にあったっけ。
なんだかイマイチ集中し切れない。こんな調子で最終日まで乗り切れるんだろうか。
漠然とした不安が拭い去れないまま、私の実習生活は幕を上げるのだった。
数年ぶりに訪れた母校の感想は──「思ったより普通」だった。こう言うとなんだか含みがあるように聞こえるけれど、言葉どおりの意味。なんせ私が在学していた頃の六頴館高校は、全然普通じゃなかったから。
かつて、三門市は未曾有の危機に陥った。東三門を中心に、市内のあちこちが異世界人に襲撃されて、六頴の生徒からも少なくない犠牲者が出てしまった。
胸に焼きついたあの重苦しい空気と比べたら、今見ている光景はあまりに日常そのものだ。ある意味、拍子抜けなほどに。
「いやしかし、元教え子を実習生として受け持つことになるなんて、俺の教師人生でも初めての経験だ。困ったことがあれば何でも頼っていいぞ。ん?」
職員室に向かう道すがら、隣を歩く指導担当の男性教師。彼は私が在籍していた陸上部の顧問だった。やや砕けた距離感は当時の名残だ。
促された私は少し考えて口を開いた。
「そういえば、特別公欠って何でしょうか。授業で習ったかもしれないんですが、聞き覚えがなくて」
「ああ、そりゃ三門にしかない制度だから覚えんでいい。要するにボーダー隊員への特別措置だな。あいつら任務がある日は授業に出られないんだ」
「ボーダー? ……えっと、先生のクラス、1年生ですよね」
「うちの歌川は優秀だからなあ。中学の頃にはもう正隊員としてバリバリのトップランカーだったらしいぞ」
わははは、と教え子の功績を自慢げに語る教師。強面に反するその気さくさは、今も変わらず生徒たちに慕われているのだろう。
けど、その、言いたかったことはそうじゃなくて……わずか16歳の少年が戦闘に駆り出されるという非倫理さえ、この街の住人はもはや受け入れきってしまっているらしい。
「おおそうだ」
教師がさらに声を弾ませた。
「歌川といえば、あいつの上司、なんとあの風間なんだよ。覚えてるか? お前ら種目は違ったが、我が強い同士しょっちゅうくだらん張り合いしてただろ」
その名を聞いた瞬間、顔や声よりも真っ先に呼び起こされた記憶は、映像だった。
空中で弧を描くように跳び上がる小柄なシルエット。
風間。1学年下の、陸部の後輩。
「風間がボーダーに……そういえば高校の時から噂になってたような」
「なんだ本人から聞いていないのか」
「私が引退した後の話ですよ。あいつ、陸部も突然辞めちゃったって。ていうか別に張り合ってないですけど」
「風間は風間で、立派にやっている。どうだ? こっちにいる間に、一回くらい連絡してみたら」
「やですよ。とっくに忘れられてるか、覚えてたとしても何しに来たんだって目で蔑まれて終わりです」
自分で言ったそばから、その様子は脳裏でありありと再現された。興味のないものに対するあのゴミを見るような目。
……だんだん思い出してきた。風間というのはいつも無愛想で、可愛げがなくて、そのくせ負けん気だけは一丁前な、ちょっとばかし性格の悪いクソガキだった。
「そうかあ? あいつは案外……ま、お前の気が変わったら」
元顧問がこの話題を持ち出したことに、他意はないんだろう。私と風間に特別な繋がりはなくて、部活でしか会わない先輩と後輩、顔見知り以上友人未満、目が合えばまあ話すかな程度の関係値。側から見たってせいぜいそんな印象だったはずだ。
緊張すると無駄に声を張ってしまうのは私の癖なのかもしれない。
思いがけない名前を聞いて、一瞬でも動いてしまった感情は、うまく誤魔化せただろうか。
***
あの日は昼から雨予報で、少しずつ空に集まってきた雨雲が、家を出る頃にはすでにパラパラと細かな粒を散らし始めていた。
顔に落ちる水滴は冷たく、湿った土の匂いが立ち込める。こんな日に自主練しようなんて物好き、私くらいでしょ。今日は誰にも邪魔されずトラックを独り占めできる──そう思っていたのに、校庭には先客がいた。
また今日も、1番乗りをあいつに譲ってしまったみたいだ。
「あっ」
練習を始めて何度目かのハードリングで、踏み切りをミスった。足りない。直感で悟ったけど、地面から離れた疾走の勢いは止められない。
バーを越えようとした内ももが硬い感触に阻まれる。派手な音を立ててなぎ倒されるハードル。引きずられるように私の身体も地面に倒れ込む。
擦りむいた腕と手のひらに、細かな砂利がびっしりと食い込んでいた。
「いった……」
なんとか上体は起こしたものの、その場に座り込んで動けなくなってしまった。痛みではなく、情けなさのせいで。こんな失敗。練習に集中できていない証拠。
(もし本番でも失敗したら……)
もう何ヶ月も自己ベストを更新できていなかった。
推薦で入った陸上部。恵まれた環境にいながら、記録は未だ県大会止まり。インターハイ出場の夢を叶えるのは、今年がラストチャンスなのに。
水を吸った前髪が顔に張り付いて気持ち悪い。
項垂れる私の横を、風のように軽やかな足音が走り抜けた。
あいつ──風間は、無愛想な割に不思議な存在感をもつ後輩だった。アスリートとしては決して恵まれていない体型。それでもめきめき記録を伸ばし、2年生ながら陸部のエース格に登り詰めている。
練習量も人一倍だ。もともとストイックだったけど、最近は取り憑かれたように自主練に打ち込むようになった。身内に不幸があった……みたいな話はうっすら聞いたことがある。それが関係あるかは分からない。
そして、誰よりも綺麗なフォームで跳ぶのだ。
理想的な踏み切り、理想的な角度。身長よりはるか頭上のバーを、弓なりの軌道で超えていく。ほぼ完璧なクリアランスでその身体がマットに沈むまで、スローモーションのように見せつけられた。
胃の奥をキリリと鷲掴みにされる感覚。
へたり込んでる私なんか、気づきもしないで……。
立ち止まることなく成長し続ける後輩への、それは誤魔化しようのない嫉妬だった。
焦りで気持ちが荒んでいたのは間違いない。だとしても、あの時の自分はどうかしていたんだ。
わざと人を傷つけようとして口を開いたのは、あれが初めてだった。
***
校庭に出ると、それは否応なしに視界に入り込んでくる。数キロ離れたここからでも全貌が分かるほど巨大なボーダー基地。懐かしい景色の中に唯一異物として映るそれは、できた当初は怪しい噂で持ちきりだった。いまやすっかり三門市のランドマークだ。
妙にその存在を気にしてしまうのは、今朝耳にした名前とは無関係だと言い聞かせる。
1日授業を見学して、放課後は部活参加。堅苦しいスーツとパンプスからはようやく解放されたけど、気分は晴れなかった。
個人的にいい思い出のない陸上部にはあまり近寄りたくなかったのが本音だ。指導教官が顧問なので、避けて通れなかったわけだけど。
「ええっ、先生まじ凄いじゃん」
「安定感やばいし、脚はや……これで現役じゃないの?」
仲良くなった女子生徒にせがまれ、1回だけハードリングを実践してみせたら、ワッと歓声に迎え入れられた。
「現役時代はもうちょっと速かったんだけどねー」
冗談めかして笑ってみせる。これくらいの見栄は許されるだろう。
「あの……」1人の女子がおずおずと前に出てきた。1年生かな。
「私、インターハイ目指してるんです。先生くらい速くなったら出られますか?」
──答えに詰まってしまったのは、私の未熟さだ。彼女たちの「先生」である自分に求められている言葉なんて、考えるまでもないのに。
「……そうだね。頑張って速くなって、インハイ出よう」
「はい!」
生き生きとした返事に、チクリと胸が痛む。ごめんね。頑張ったって報われない現実も、私は知っている。それでもあなたのためには、こう言ってあげるのが正解だと思うんだ。
私自身のインハイ出場は叶わなかった。最後の夏、近界民侵攻によってこのあたりの地区は予選大会そのものが中止になってしまったから。
私が捧げてきた時間や情熱は、果たして夢に届いたのか──それも結局分からずじまいだ。目標だけを見据えてがむしゃらに打ち込んだ高校時代は、成功も挫折も得ることなく終わってしまった。
それ以来、何をするにも意義を見出すことができなくて、無為な時間を費やしている。
(この教育実習だって、本気で先生を目指しているのかと言われたら……)
ほの暗い罪悪感とともに校庭を眺める。笑いながら練習に戻っていく部員たち。彼女たちだって侵攻を経験しているはず。日常と非日常が交差するこの街で、夢を語り、まっすぐに青春を謳歌する姿が眩しく映る。
三門を出たはずの自分だけが、未だ4年前に取り残されている気がした。
(……。レポート、メモしなきゃ)
雑念を振り払うように踵を返した時だった。
ふいに、背後からチリチリと空気が擦れるような音がした。それは音というよりは気配に近いものだったけど、同時に嫌な予感も感じ取っていたのかもしれない。
反射的に振り返る。視線の先、グラウンドのど真ん中で、虚空が裂けるように口を開けていた。
『緊急警報 緊急警報
門が市街地に発生します
市民の皆様は直ちに避難してください
──繰り返します』
けたたましいサイレンがあたり一帯に反響する。
「門……!? 門だ!」
「早く、地下シェルターに!」
校庭のざわめきが、一瞬で絶叫に変わった。
あれが門!? 4年前に三門を襲った、あれが……!
門はみるみるうちに拡張し、暗い深淵を剥き出しにしていく。闇の中から、白い異形がにじり出た。
「訓練通りだ! 全員落ち着いてシェルターに避難しろ!」
教師の怒号に押され、生徒たちが雪崩のように校舎へ駆け込んでくる。訓練? 何それ、こんなときどうしたらいいかなんて習ってないよ! 私も避難誘導に回るべきなのだろうけど、勝手が分からず何より突然のことで頭が真っ白だ。
──ズシン。
地面を殴りつけたような衝撃が足裏を突き上げた。門の真下に2体の近界民が降り立っている。テレビで見たときは、現実味のない映画の中のハリボテにしか見えなかったのに、実際はこんな──空気を震わせる質量、肌を泡立たせる咆哮。想像をはるかに超える実体感が、圧倒的恐怖となってのしかかる。
その巨体の向こうで、小さく立ちすくむ影が目に入った。
(あの子……!)
陸上部の女子生徒だ。近界民によって分断された向こう側で完全に孤立している。逃げ道を見失ったか、パニックに陥ったか、その場から一歩も動かない。
誰もあの子に気づいてないの!?
「……ッ!」
誰かに助けを……この状況で、誰に!
恐怖に呑まれた現場は悲鳴と絶叫が渦巻いて、声を上げても届かない。そもそもあんな怪物相手に、誰を頼れば良いというんだろう。
迷っている時間も、選択肢もなかった。
だって、私以外、誰もあの子を助けに行けない。
心臓が、耳の奥でひどく暴れている。
全速力で校庭を横切って、なんとか近界民より先に彼女の元にたどり着いた。
「走って!」
茫然自失とする彼女の腕を力任せに引っ張る。足をもつれさせながら無理矢理走り出せば、その子もようやく正気を取り戻し、自分の意思で動き始めた。
地面が揺れる。砂煙が視界をひどく濁らせる。目を細めながら背後を見ると、1体の近界民が直近に迫って口を開けていた。
「……この先に誘導の先生がいるの、そこ目指して、あとは指示に従って」
「っせんせ」
「行って」
固く繋いでいた手を離し、彼女の背を押すと、自分はその場で身体を反転させた。
近界民が前進するたび、衝撃が地面を伝って全身が大きく揺さぶられる。
ちょっとだけ自惚れてた。私の脚なら、囮になって時間を稼ぎつつ、もしかしたら逃げ切ることもできるんじゃないかって。最初から期待薄ではあったけど、対峙した巨体を見上げて、それがどれだけ無謀な賭けだったのか改めて思い知らされる。
頼みの脚も、震えて使い物になりそうにないや……。
(数秒だけでも……あの子が避難場所に駆け込むまで……!)
涙を堪え、最後の希望を振り絞るように拳を握りしめた瞬間。こちらを捉えて離さなかった近界民の「目」が、唐突に明後日の方へ向けられた。
何かが視界を横切った。
「え……」
その瞬きの間に、何が起きたのか。鋭い金属音とともに、まるで糸が切れたかのように力無く崩れ落ちる近界民。
もうもうと立ち昇る砂煙の切れ間に降り立ったシルエットを見て、確信なんかなかったのに、気づけばその名を口にしていた。
「風間……?」
***
分厚いマットから身体を起こした風間と目が合った。地面に座り込んで様子のおかしい私にようやく気づいたんだろう、怪訝な顔をしてこちらに駆け寄ってくる。
「立てますか」
差し出された手。無駄なく引き締まった筋肉はアスリートのそれだけど、骨格は同学年の男子と比べてやっぱり華奢だ。少し強まってきた雨脚が無数の水滴を落とし、彼の腕を伝って指先から落ちるのを意味もなく眺める。
いつまでも手を取らない私を不審がって、風間の表情もわずかにひそめられる。
「風間はさ」
行き場を失った苛立ちが、矛先を探してどうしようもなく燻っていた。
「なんでそんなに必死なわけ? 頑張ったってその身長じゃ、勝てるわけないのに」
吐き捨てた瞬間、なぜか雨音すら遠のいて、自分の声だけが鮮明に響いた気がした。
やってきたのは猛烈な自己嫌悪だった。今しがた自分の口から出てきたものが信じられない。心臓が縮み上がり、全身の血が地面に吸い取られていくような感覚。
走り高跳びという、絶対的な高さを競う競技で、数十センチの差はセンスでは補えない。風間の身長はハンデというにはあまりに致命的──そんなこと、言われるまでもなく本人が1番分かっているはずだ。私はいま、くだらない八つ当たりのためだけに、後輩の真剣な取り組みを嘲笑ったんだ。
「あ……」
傷つけた。そう思って反射的に顔を上げたら、精彩な赤とぶつかった。いつも通り鋭くて意志の強い風間の目。だけど感情は凪いでいて、怒ったり、動揺する様子が少しもない。
あまりの無反応に、1度は霧散した苛立ちが再び募っていく。
私の悪意なんか取り合う必要もないってわけ……?
ただまっすぐ据えられた視線に、自分の浅ましさを見咎められているようだった。謝罪の言葉は張り付いたように出てこなかった。
視線がゆっくりと外れ、風間は屈めていた身体を起こした。私は膝を付けたまま、何も言えずにそれを見上げている。
いつもツンと跳ね上がった短髪が水を含んで倒れている。そのせいかな。表情も口調も変わらないのに、いつもの不遜な言い様とはどこか違って聞こえたのは。
「俺は……」
***
私と近界民とを隔てるように、その人物は目の前に降り立った。充満する土の匂い。さっきまで私を追い詰めていた巨体が、青い背中越しにみるみる瓦解していく。
身体の向きはそのままに、視線だけが鋭くこちらを射抜く。
「か、ざま」
知っている瞳に、今度こそ確信した。だけどなんで? 状況に理解が追いつかない。
不思議なスーツを纏った風間の手には光る刃。フィクションじみた出立ちに幻覚を疑っていると、その肩がピクリと反応した。
刃を一瞬で消し去り、伸びてきた両腕が私をさらうように抱え込む。
「は⁉︎ ちょっ……」
「しゃべるな。舌を噛む」
想像以上の近さで囁かれ、混乱はついに天元突破だ。硬直した隙に折り畳まれた身体が風間の腕の中に押し込められる。
先輩に向かってタメ口を……なんて場違いすぎる抗議は、口にする前にかき消された。
「ひぃっ⁉︎」
地面を蹴った次の瞬間、元いた場所は跡形もなく押しつぶされていた。轟音とともに叩きつけるような風圧。倒された近界民の影から、もう1体が身を乗り出している。
私はそれを、高速で流れていく景色の中に見ていた。絶叫マシンのように上下左右に揺さぶられて、怖いという感情すら追いつかない。心臓だけ遠く置き去りにされたみたい。
ひときわ強い衝撃の直後、砂利を盛大に削る音が響いて、ようやく動きが止まった。腕をぐいっと引き剥がされる。無意識にしがみついていた私は、急に視界を占領した風間のドアップに面食らった。
「ケガは?」
「な、ない」
「そうか」
言葉少なに解放される。解放、というか、地面にほっぽり出された私を残し、風間はすぐに背を向けて走り出した。
向かう先、そう遠くない距離にはもう、怒り狂って前進してくる近界民の姿が……!
「風間ああっ‼︎」
悲鳴混じりの制止は届かなかった。
校舎の3階窓に届く怪物に対し、向かっていく背中はあまりに小さい。思わず伸ばした右腕、その先に垣間見る光景が絶望的に映る。巨大な前足が容赦なく振り下ろされる──
その時、視界から風間が消えた。見失ったんじゃない。ずっと目で追いかけていたのに、一瞬で蒸発したように存在を消してしまったのだ。
驚いて視線を彷徨わせる。私だけじゃなく、近界民も標的を探して動きを鈍らせている。
閃光が走った。
その光源、近界民の口腔に被さるように現れた影。
地上から何メートルもの高さを足場にして、さらに頭上へと舞い上がる軌道に、いつかの記憶が重なった。
***
「俺は、自分が何がしたいのか正直分かりません」
言葉の意味をすぐには掴めなかった。少し間を置いて、先ほど私が投げつけた問いへの返答なのだと理解する。
「才能も目標もない。先輩からしたらつまらない人間だろうなと思います」
風間の声は、淡々と世界を濡らし続ける雨粒と同じように、静かに落ちてきた。皮肉も卑屈も謙遜もない。事実を当たり前に切り出したような、無色透明の音。
だからこそ動揺した。本当に風間のセリフだろうか。実直で揺るぎのないこの男が、まさかそんなことを言い出すなんて。
思いがけず差し出された胸の内に、返す言葉が見つからない。完全に沈黙した私を前に、風間も珍しく言い淀んだ。自分でも理解しきれていないものに、適切な言葉を探しているみたいに。
「結果を残さない努力に、意味はないのかもしれません……ただ、」
そうして、その瞳はまた遠くの空を見つめる。俯いているところを想像できないくらい、こいつの目線は常に私の届かない高さを向いているんだ。
「昨日まで跳べなかった高さを超えるのは、気分が良い」
どこか自嘲気味に、だけど誇らしげにも見えるその横顔を、この先一生忘れられない気がした。
***
稲妻のような光が、空中を斜めに切り裂いた。
校庭中に響き渡る濁った低音。叫ぶ近界民の口もと、目玉のような機構が裂けて、血しぶきのように黒い何かが噴出している。
そこに風間はいた。最初に見た光る武器のようなものを手に、大きく薙ぎ払った体勢。苦しみもがく近界民が、頭を振り上げてそいつを落とそうと躍起になる。
その反動を簡単にいなし、自ら空中へと跳び上がった小柄な身体が、視界のはるか上の方で放物線を描いた。西陽に照らされながら遠くの雲と重なる弓なりのシルエット。
「高……」
思わず、呟いていた。
しなやかな芯に支えられた完璧なフォームに、かつての風間のセリフがリフレインする。
『昨日まで跳べなかった高さを超えるのは、気分が良い』
「限度ってもんがあるでしょ……」
心の中で突っ込みながら、相変わらず乱れのない空中動作から目が離せない。
ずっとそうだった。風間が跳ぶとき、私はその姿に何度も見とれてきた。覚えのある情景にまみえて、感情までもが当時のままに蘇ってくる。
視線はそのまま、音もなく地面へと着地する。
悪あがきのように暴れていた近界民も、ついに力尽きた。砂を巻き上げて崩落した後は、自立して動き回っていたのが嘘のようにただの無機物の塊と化した。
敵の沈黙を見取った赤い双眸が振り向く。へたり込んだままの私は、近づいてくるその姿を自然と見上げる形になる。
「立てますか」
差し出された手。男性にしては細身だけどどこかたくましい。以前にもこんなことがあったなと、思考が勝手に過去を遡る。
小雨まじりの朝、ふたりきりの校庭で。
後輩に対し、八つ当たりなんて最低な真似をした私は、あの日をずっと後悔していた。
『才能も目標もない。先輩からしたらつまらない人間だろうなと思います』
あの日、あの状況じゃなければ聞くことのなかった風間の胸の内を、本当はその場で否定したかったんだ。
風間は生意気な後輩だった。口数は少ないし、態度は尊大だし、年下のくせに全然可愛げがないし。弱音なんか絶対吐かなくって、人にも自分にも厳しい。あいつを見ていると、自分の中の甘えを突きつけられるみたいで、悔しかった。
誰よりも綺麗な風間のフォームは、純粋な努力の裏打ちだ。生半可な才能なんかじゃ真似できない、愚直に練習を繰り返すことでしか習得できない技術。
本当に強いのはきっと、努力をする理由がある人じゃなくて……
努力をしなくていい理由に、屈しない人なんだって……。
自分にない強さを持った風間という人間に、私はきっと、ずっと、憧れていた。
いつまでも手を取らない私に、風間がじれったく眉をひそめる。このままだと引っ込められてしまう。そう思って、思い切ってその手を掴む。
数年越しに知った手のひらの感触は、想像よりも力強かった。
「風間」
立ち去られる前にと、慌てた口がその名を呼んだ。何か言わなきゃ、とは思ったけど、何を言うかは考えてなかった。私の発言を待つ風間にじっと見つめられて、余計に思考が空回る。
助けられたことへの感謝とか、過去にうやむやにしたままの謝罪とか。伝えたいことはそれなりにあった。なんでだろう。そのどれもが言葉にすれば月並みで、伝えきれない部分がもどかしい。
こいつと言葉を交わすのは、たぶんこれが最後。だったら……ずっと言っていなかった私の本心を……
「あんたって、やっぱ最高にカッコいいやつだよ」
「は……」
もっと余裕ある感じで言ってやるつもりだったのに、全然格好つかなかった。必要以上に声に熱がこもって、これじゃ自分のセリフに照れてるの丸出しじゃん。
だけど、それ以上に。両目をまんまるにした風間の反応が珍しかった。初めて見るその顔がおかしくって、気づけば声を上げて笑っていた。すぐに見慣れた呆れ顔に戻ったけど、一瞬でもこいつの取りつくろった調子を崩せたんだから、慣れないことでもやってみるもんだ。
4年前のあのやり取りを、ようやくやり直せた気がした。
風間はきっと、今の居場所でもあいつなりの研鑽を続けているんだろう。もしかしたら、あの時「自分にはない」と言っていた目標も見つけたのかもしれない。
たった一度夢を失ったからって、いつまでも足を止めている私に、あの嫌味なまでに完璧なフォームがまた、色濃く影を落としていった。
「もー、なんなんですか、その心音。さっきの戦闘だって、ぼくらに指示も出さず1人で飛び出して行っちゃうし。聞いてます? 風間さん?」
