3-2 進展
2日後、私と諏訪は、ふたりまとめて忍田さんに呼び出されていた。
侵攻による爪痕、それに遠征の発表も相まって、ボーダーを取り巻く世間の目はさらに厳しいものになっている。本部基地内でも、正隊員の人たちは粛々と任務をこなしているけれど、主に若いC級隊員の間では、様々な噂や憶測が飛び交う始末だ。
この事後処理に当たっている上層部は、相当な忙しさを余儀なくされているのだろう。それに近しい役割の風間くんや嵐山くんも、以前にも増して姿を見なくなった。
そんな中でわざわざ気にかけていただいたことに感謝しつつ、諏訪は隊服で、私は、学校帰りの私服のまま本部長室へと向かう。
「失礼します」
ノックの直後に入室を許され、踏み入った先には、忍田さんがひとりで座っていた。
L字型に置かれたデスクの傍らにはもうひとつ椅子があるけれど、普段そこで補佐に当たっているであろう沢村さんの姿は今はない。
品よく揃えられた調度類は、いかにも重役の個室という格式を主張している。ただ、せっかくこだわられているその演出も、崩れた書類の山に埋もれて効果は半減だ。分厚いファイルがいくつも、デスクの上だけでなく、床にまで侵蝕してしまっている。
久しぶりにお会いした忍田さんは、心なしか目の下が暗く沈んでいた。
あまり休めていないのは一目瞭然、それでも、こちらに向けられる誠実な微笑みは相変わらずだ。
「すまない、少しかけて待っていてもらえるか」
促されるまま、部屋の手前の応接セットに諏訪と並んで腰掛けた。
無言の室内に、キーボードの音だけがしばらく響いて、それが止んだ後、忍田さんも自席を立ち上がった。
「待たせて悪かった。諏訪、その後も身体に不調はないな?」
「それ聞くの何度めっすか。見ての通りピンピンしてますよ」
「はは、あの時は私もさすがに肝を冷やしたんだ。無事で本当に良かったよ。高槻さんも、入隊直後にも関わらず、重要な任務を担ってもらった。ありがとう」
「! とんでもないです」
目の前に対座した忍田さんの、思いがけない労いの言葉に驚いて背筋が伸びる。
C級の身分で勝手に戦闘に参加した手前、てっきりお咎めを受けるものと思っていた。
困惑が伝わったのか、忍田さんは苦々しく笑った。
「まさか戦場に乗り込むとは思わなかった。その件に関しては、私から風間隊長に厳しく言っておいた。今回は彼の監督範囲内ということで、きみの責任は問われないが、命令外の行動はこれきりにしてくれたまえ」
「甘ェっすよ本部長、風間のヤロー、あれ絶対反省してないっす。一度本気で落ち込ますくらいのガチトーンでお願いします」
どうやら私の分まで風間くんが叱られてしまったらしい。
責任をなすりつけたようで申し訳ないけれど、叱られたくらいで彼にダメージが入るかというと、その心配はなさそうという点で諏訪と意見が一致した。
諏訪の苦言を笑って流して、忍田さんは改めて本題を切り出した。
「早速だが、高槻さんに、正隊員昇格の打診がしたい」
告げられた言葉に、薄く緊張の色が乗る。先ほどまでの砕けた会話と違い、忍田さんの口調も、正式な場で聞くものに近くなっている。
「C級からB級に上がるには、訓練やランク戦を重ねてポイントを獲得する必要がある。このポイントだが、もともときみが保有していたものに、今回の戦功を正しく評価したポイントを上乗せすれば、まもなく昇格基準というところまで届いてしまう。きみの場合、入隊の経緯が特殊だろう? 昇進が本意であるかどうか、直接確認したくてね。
正隊員になるということは、当然、防衛任務への参加が義務づけられるということだ。ほとんど強制的に入隊させられたきみには、これを拒否する権利がある」
淀みなく流れるような、事務的な説明だった。
ここまでを正しく理解している表明として、私が小さく頷くと、それに頷き返し、彼は続けた。
「銃手でその規格外のトリオン量は圧倒的武器だ。訓練も真面目にこなしているし、戦功のことがなくても、近いうちに自力で昇格できてしまうだろう。
先日の働きもあって、我々はすでにきみを貴重な戦力だと評価している。……明け透けに言えば、ボーダーにとって、きみほどの人材を活躍させられないのは惜しいんだ。きみの才能に助けを求めたい場面はいくらでもあるだろう。良ければぜひこのまま正隊員を目指してほしい」
途中から急に丸くなった物言いに、どきりとした。
忍田さんの立場でこの言い方は、ちょっとずるくはないだろうか。こんなの、調子に乗ってうっかり了承しちゃうよ。
ボーダーの優秀な人たちは、上の人たちにこうやってたらし込まれているのかもしれない。
横目で諏訪の様子を伺う。
ここに来る前に、すでに決めていた答えを彼にはあらかじめ伝えておいた。最終的に私の意思を尊重してくれた彼は、今も黙って見守ってくれている。
「私、強くなりたいんです、忍田さん」
居住まいを正して、前を向いてそう宣言した。
「最初は、あんまり期待に応えられないって思いました。みなさんに評価していただいているこの能力は、今の私には持て余す力で……凄くも特別でもない私には、ボーダーにいる他の凄い人たちみたいに、たくさんのものを守れる自信も、それだけの覚悟をする実力もなくて。
だけど。
だけどそれは、私にできることをやらない理由にはならないって思いました。目に見える全部は助けられなくても、手の届く範囲は助けたい。そして、できるだけその手を伸ばしたい。いつか大切なものを失って、〝守れたはずだった〟なんて後悔だけは、絶対したくないから。
もっと強くなれるかもって、思わせてくれたのはボーダーです。忍田さんがおっしゃるようなお役に立てるかは分からないですけど……これからもよろしくお願いします」
私には、自分で何かしらの立場を強く望んだという経験があまりない。誰かに頼まれるか、勧められるか、消去法か――いつも受け身でしか選択ができなくて、自分のそういう部分が、ずっと好きになれなかった。
だから今、こんなにもはっきりと「したい」と言えたことに、私自身が驚いている。
相変わらず引け腰で、頼りのない意思表示。けれど、自分が望んだ結論だということは、私にとって少なからず意味のあることだった。
ほとんど自分に言い聞かせるためだけの宣言を、忍田さんは真剣に聞いてくれていた。
「――決断に感謝する。活躍を期待しているよ」
黒く凛々しい目が、すっと細められる。
受け入れられたことに安堵して、私は静かに胸を撫で下ろした。
「高槻さんを説得するには、先に諏訪を言いくるめなければならないと思っていたのだがな」
「まずその認識から否定したいとこっすけどね。そもそもこいつは、一度言い出したら聞かねえやつなんで。俺が何か言ったとこで変わりゃしねえっすよ」
「ほう。諏訪の手に余るとなると、ますます有望じゃないか。前例的に」
諏訪と忍田さんの間で冗談混じりの軽口が交わされる。それを笑って眺めながら、退室のタイミングを伺う。
忍田さんを長々と煩わせるわけにいかないもの。
すでに用件が済んだと思っていた私は、早めに雑談を切り上げて立ち上がる準備を万端にしていた。
この後に続く彼の言葉は、全く予想もしていなかった。
「さて、では改めて。きみたちにとっては、ここからが本題だと思うが」
「――え?」
「ん?」
直前まで用意していた「失礼しました」という台詞が、危うく口をつく寸前だった。
代わりに飛び出した間抜けな感嘆詞に、忍田さんが反応する。
要領を得ず固まる私と、諏訪とを交互に見て、彼の表情にも困惑が浮かぶ。
「……諏訪? もしや彼女に話を通してきていないのか?」
その言われ方からして、諏訪はこれから語られる内容を知っていそうだった。
当然私は何も聞いてない。説明を求めて横顔を覗き込んでみるけれど、全然こっちを見てくれない。
どこか無理をするように、無表情を取り繕って、忍田さんに相対している。
「……このあと、話すんで。余計な言い訳されると面倒なんです。懸念事項は先に潰しておかねえと」
何を言っているのか、ひとつも意味が分からなくて、ますます混乱した。
「ううん……そうか……まあ、本当に苦戦しているのだなということだけは分かった。それがお前の作戦だというなら、私も、上手くいくように祈っておくよ」
忍田さんは、最初かなり困った様子で眉を下げていたけれど、私の方に向き直ると、先ほどまでとは違う柔らかな顔つきで話し始めた。
「諏訪に相談されたのは、きみたちふたりの交際条件についてだ」
「こ……」
交際。
交際条件。
提示された音を、脳内で漢字に置き換えて、反芻して、意味を弾き出したところで、処理能力がエラーを起こした。
交際……交際?
諏訪と私の?
なんで今そんな話題に?
言葉通りの意味で解釈を試みて、問題がそこではないことに一拍遅れてようやく気付く。
諏訪が。忍田さんに。私との交際の相談を。
「えっ、えっ……えっ!?」
じわじわと込み上げる恥ずかしさに全身が炙られた。
胸から始まり、首、顔、耳たぶと、順番に熱が伝わって染まっていく私の様子を、苦笑する忍田さんに一部始終見られている。
この反応が予想通りだとでも言うように、私を置いてきぼりに話は進む。
「高槻さんと交わしている契約内容――『サイドエフェクトが発動している状態で、無許可で隊員および職員に接触してはならない』、この対象から自分を例外的に外せないかという打診だったな」
忍田さんは、傍らに伏せていたクリップ留めの書類を持ち出して、上の2、3枚をめくって素早く目を通した。
「そもそも何故、この条文の順守を我々が彼女にお願いしているか分かるか?」
「自分のトリオンが増えりゃ、アホでもこいつの能力に気付く。機密保持の観点が第一。あとは、急激なトリオン量の変化によるトリオン体の負荷、生身の健康影響への考慮、でしょう」
「そうだ。それに、ランク戦の公平性にも関係する。このSEはある種ドーピングのようなものだからな。
……と。そうだった。高槻さん、少し諏訪との距離を空けて座ってもらえるか?」
思い出したように促され、慌ててソファの端と端に移動する。
訓練に出ないからって、今日に限ってトリガーをメンテなんかに出しちゃったのが仇になる。羞恥でゆでダコのようになっているこの状態から、今の私には逃げる術がない。
忍田さんはあくまで事務的に言葉を選んでくれているけれど、今話している内容って……
要するに、諏訪が、私に、くっ付きたい……って、そう言ってるようなものだよね……!? 忍田本部長に……!?
「つまり、秘密を守り、安全に考慮して、任務や訓練に支障をきたさなきゃいいわけだ」
人生最大の悶絶を味わっている私の心情なんか意に介さず、諏訪は勝手に結論を断定した。
居た堪れなくて胃痛がしてきた。本当に、自分が言っている意味、分かっているのだろうかこの男。
「結論を言えばそうなるな。任務に当たるシフトを調整し、ふたりが会う時間にも制限を設ける、という制約を新たに交わすこと自体は不可能ではないだろう。が――どちらかと言えば、これは実現性というよりは、諏訪側の覚悟が問われる問題だと私は思う」
覚悟、という響きによって、それまで蒸発して空中に霧散していた意識が一気に引き戻された。
忍田さんの顔は、怖さはないけれど極めて真面目だ。
持っていた書類を再びテーブルに伏せ、両腕を組み直す。上司というよりは、親や先生――大人の顔、という印象を受けた。
「高槻さんには今から酷いことを言ってしまうが、きみも当事者だ。諏訪の回答を聞いてよく考えてほしい。
きみたちの恋愛は、自由とは言えないだろう。時間も行動も、ある程度組織の管理下に置かれて制限される。プライバシーや人権はもちろん尊重されるべきだが、ボーダーというシステムの健全な運用、ひいては、他ならぬ高槻さん自身の安全のために、看過できない問題があることを理解してほしい。
同世代の一般的な恋人たちと比較すれば、理不尽に感じるはずだ。諏訪はそれでも、彼女をパートナーに望むのだな?」
ずきんと痛んだ胸の奥で、静かな恐怖が頭をもたげた。
忍田さんのその問いは、私が自分では怖くて聞けないことだ。
ただ一緒にいたい、それだけの希望を叶えるために、私が恋人に払わせることになる代償は重い。制約も、リスクも、他の子と付き合うのには必要のないもの。
それでも、諏訪はきっと受け入れると答える。
そういうやつだって知ってる。
拒否されるのも辛いけれど、私がこいつの重荷になることを、こいつ自身に選ばせるのも怖かった。一度言い出したことを途中で曲げないのは諏訪だって同じだ。
止めるべき、と伸ばしかけた手が躊躇して、身体の近くを彷徨った。
この期に及んで、心に潜むもうひとりの私は、諏訪に選ばれることを望んでいる。
みんなが当たり前に手に入れる幸せを、私だけが我慢しなくちゃいけない、この体質を呪う感情が、一瞬だけ良心を絡め取る。
選ばれたい。
背負わせたくない。
拮抗する気持ちが、どちらも紛れもない本心として、私を膠着状態に陥れる。
ふいに、こちらに向けられた鋭い三白眼が、私を見留めた途端にふっと緩んだ。
それから、視線を動かして、正面にいる大人を怯まず見据えた。
「聞かれるまでもねえな」
覚悟を決めるでも、反発する口調でもない。
ただ、もうとっくに決まっていた事実を、わざわざ念押しされただけのような……皮肉と、脱力、少しの呆れが混じったような、自嘲するような答えだった。
――何も、言えなくなってしまった。
「そうか」
諏訪の答えが、彼の満足するものだったかは分からないけれど、忍田さんもまた、仕方のなさそうに表情を緩めた。
「気持ちは受け取った。細かな制約などは、正式な手続きを踏まえて協議となるが、可能な限り希望を尊重しよう。……我々ができるのはここまでだな。あとは諏訪、肝心の彼女の承諾をもらわないことには話が進まない。お前が本気で頑張るのはここからだ」
「ったく、アンタもかよ。上の人たちゃ、若者の色恋に口出しすぎじゃないっすかねェ?」
「そうは言うが、上層部の会議議題に恋愛相談なんてものを持ち込んだのは、後にも先にもお前くらいだぞ」
「ぐっ」
なんだか聞き捨てならない情報が混じり込んでいた気がして、血の気が引く。本当に何をしているの。
「高槻さん。大変だとは思うが、良かったら考えてやってくれ。無理だと思ったら、私に遠慮することはない、引導を渡してやれ。逆に、仮に諏訪がきみを蔑ろにするようなことがあれば、この件に関わった上層部全員に肩身を狭くさせられるのはこいつだからな、味方が多いという点は安心するといい」
「完全に面白がってんじゃねーか!」
(どうしよう……全然安心できない……)
結局最後までひと言も口を挟めないまま、退室を促された。
本部長室を出た廊下で、無言で立ち尽くす。
左手の計測器は黄色く警告を出していて、諏訪に近づけない。というか、気まずくて顔を見れない。
言いたい文句は山ほどあった。
なんでひとりで全部決めるの、とか。忍田さんただでさえ忙しいのに何仕事増やしてんの、とか。上層部会議に持ち込んだ議題って何、とか……。
ぐるぐるぐるぐる、思考と感情がカオスになって、お腹の中でもたれている。
なんでこんなことになっているのか全然分からないよ。諏訪のばか。
「おい」
心の中の悪態が聞こえたわけじゃないだろうけれど、斜め上から不躾な声がタイミングよく降ってきた。
このまま立ち尽くしていても埒が明かない。意を決して顔を上げる。
どんな顔をしているのかと思えば、諏訪は思いのほかいつも通りだった。
「おめー、このあと空いてんだろ。飯行こうぜ。東さんおすすめ、うめー豚しゃぶ食える店」
「豚しゃぶ」
「嫌いじゃねえよな? 一応他にも、モツ鍋、焼肉、鉄板焼きあたりも候補あるけどよ」
指折り肉料理ばかりを提示される。
想定していなかった話題に拍子抜けすると同時、それはそうかと思い直す。
なぜか、今すぐ返事を迫られるものと思って身構えてしまっていた。諏訪だってさすがにそんなセンシティブな話は切り出す場所を選ぶだろう。
ほっとした反面、気付く。つまり、夜の約束は、そのときには返事をもらうぞという先触れってこと?
ぽぽぽぽ、と音がしそうなほど簡単に、顔の熱が戻ってきた。私は今、この男に口説かれるためにデートに誘われているらしい。
口ごもった私をしばらく見つめて、諏訪は息を吐いた。
「……行かねえ?」
薄笑いで、まあ断られてもしょうがないかくらいに思っていそうなその顔が、なんだか自分と違って余裕がありそうに見えて、ムカついた。
「……豚しゃぶがいい」
「おう。じゃ、19時に西の連絡通路な」
エレベーターに向かって歩き始めた背中を慌てて追いかける。
作戦室のフロアでこいつが先に降りるまで、終始一定の距離を空けていなければいけなかった。